天保13年(1842)の大山道道標
江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まる中、冨士講という団体が各地で作られ、冨士講の人々は富士山に登るほかに身近なところに小型の富士山(富士塚)を築き、これに登って山頂の石祠を拝みました。
目黒区内には二つの富士塚がありました。一つは文化9年(1812)に目切坂上(上目黒1-8)に築かれたもので 「元富士」 と呼び、後に別所坂上(中目黒2-1)に築かれたもう一つの富士塚を
「新富士」 と呼びました。元富士は高さ12mで、石祠(浅間神社)を祀っていましたが、明治11年(1878)に取り壊しとなり、この氷川神社の境内に石祠や富士講の石碑を移しました。
昭和52年(1977)7月に富士山に見立てた登山道を開き、境内の一角を 「目黒富士」 と呼ぶようになりました。7月1日には山開きの例祭が行われています。
(目黒区教育委員会)
浅間神社前にある文政3年(1820)の手水石
目黒富士解説
社殿造営記念碑
舞殿
氷川神社より古いと言われる稲荷神社
上目黒一丁目の目切坂にあった元富士を遷座した浅間神社
拝殿に掛かる氷川神社の扁額
手水舎
上目黒氷川神社拝殿
大山道 せたがや通り 玉川通り
祭神は素戔嗚命を主神とし、天照大御神、菅原道真を合祀しています。旧上目黒村の鎮守で、天正年間(1573-92)に上目黒村の旧家加藤氏がこの地に迎えたと言われています。
正面の石段は文化13年(1816)に造られましたが、明治38年(1905)に前を通る大山街道(玉川通り)を拡張する際に、現在の旧勾配な石段に改修されました。境内には、花崗岩造りの4基の鳥居や小松石造りの2対の狛犬があります。
また、石段の下には 「武州荏原郡菅刈荘目黒郷」 と刻まれた供養塔や、天保13年(1842)に建てられた大山道の道標があります。大山道は江戸時代、石尊参り(大山への参詣)をする多くの人々が利用しました。
境内には、目切坂上にあった目黒元富士から石碑などが移され、「目黒富士」と称す登山道が築かれています。
(目黒区教育委員会)
氷川神社由緒
文化13年(1816)の石段参道
左 青山 あざぶ みち
右 ひろう めぐろ 池がミ 品川 みち
氷川神社鳥居