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日光脇往還   (館林~佐野


令和4年6月18日(土)   ☁    館林~佐野    10.0㎞
本日は、日光脇往還を歩き終える予定である。館林宿から天明宿(佐野)までの10㎞程の行程であるが、前回のように途中寄る場所が多く時間がかかることもあるので、いつものように早朝の出発とした。なお、別の機会で館林を訪れたときに著名な神社仏閣を見て回ったので、その分も掲載することとする。

館林駅 榊原康政の墓跡 街道並み 館林城跡
午前7時の館林駅前は、土曜日ということもあり車も人通りも少ない。駅前から街道に出るまでは10分弱である。 館林駅前に榊原康政の墓跡標柱が建っている。ここは善道寺があったところで、平成2年(1990)に駅前広場整備事業により、駅前から城沼の東端に位置する楠町に移転している。善道寺には徳川四天王の一人であり、館林城主でもあった榊原康政の墓がある。 館林駅入口交差点で街道に出ると、まだこの時間には、ほぼ人通りはない。ここから先は暫く街道を離れて、館林駅入口交差点の東にある城沼周辺の神社仏閣等を見ていく。(別の日に訪れたものを掲載) 館林駅入口交差点から東に600m程進むと、左手に館林城跡がある。館林城は、「城沼」 を自然の要害とした平城で、別名を 「尾曳城」 という。城の大半は明治7年(1,874)に焼失したが、現在も本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、ここ三の丸のは土橋門が復元されている。

八幡宮・舘林城本丸 旧秋元別邸 田山花袋旧居 尾曳稲荷神社
舘林城城跡三の丸から東に500m程進んだ 「つつじが岡第二公園」 の一角に八幡宮と舘林城本丸跡がある。八幡宮は、江戸時代には武家の守り神として、また城の守護神として祀られていた。八幡宮の近くには館林城本丸の土塁が残っており、この地は館林城の中心部に当たるところである。 八幡宮に隣接して旧秋元別邸がある。旧秋元別邸は、明治末期に末期に建てられ、秋元興朝(おきとも)とその子春朝(はるとも)が別邸として使用した旧館林藩主秋元家に関わりの深い建物である。敷地内には、大正8年(1919)に毛利教武が制作した 「秋元春朝投網像」 などがある。 旧秋元家別邸の道路を挟んだ北側に田山花袋の旧居がある。木造平屋建、茅葺屋根の建物は、自然主義文学作家の田山花袋が明治11年(1878)から明治19年(1886)まで住んだ家で、館林市の文化財第1号として史跡に指定され、昭和56年に館林市第二資料館に移築されたものである。資料館敷地には、旧上毛モスリン事務所、旧小泉街道沿いにあった道標などがある。 館林市第二資料館の東を走る道路を挟んで尾曳稲荷神社がある。尾曳稲荷神社は、天文元年(1532)、時の城主赤井照光によって館林城の鬼門除けとして創祀された。館林城築城にあたり赤井照光と子狐の逸話が残っている。赤井照光が子狐を救ったお礼に、老狐が現れ、館林は要害堅固の地と説き、尾を曳いて城郭の縄張りを先導したという。境内には、弁才天のほかたくさんの稲荷祠が所狭しと並んでいる。

善長寺 善導寺 町検断の門 太陽の園
尾曳稲荷神社から城沼に出て、城沼の畔の遊歩道を700m程東へ進むと、左手に曹洞宗の巨法山善長寺がある。善長寺は、大永3年(1532)館林城主赤井但馬守家範によって創建され、開山は大雲惟俊大和尚である。ここには榊原家第三代館林城主松平忠次の生母が埋葬されている。境内には観音堂、鐘楼堂のほか、寿老人、榊原康政の側室お辻の供養塔、馬頭観音などの石造物がある。 善長寺から城沼の遊歩道(朝陽の小径)を1.2㎞程東に進むと、浄土宗の終南山見松院善導寺がある。善導寺は、和銅元年(708)行基菩薩が全国を巡錫し館林に訪れた際、草庵を設けたのが始まりと伝えられている。その後、歴代館林城主に庇護され隆盛を極め、戦国時代に一時衰退するも榊原康政が入封し再興して境内を整えている。境内には、榊原康政の墓があり、昭和28年に群馬県指定史跡に指定されている。 ここからは街道に戻って、館林駅入口交差点の先を進んでいくこととする。館林駅入口交差点から200m程進むと、右手の群馬銀行館林支店の手前に 「町検断の門」 がある。ここは、江戸時代に館林町の検断職を務めた青山家の屋敷があった所である。屋敷門は長年の経過で倒壊の恐れがあったため、平成14年に修理を行っている。 町検断の門から50m程先は、本町二丁目交差点で、かつては 「札の辻」 と呼ばれた十字路であり、この右角にポケットパークの 「太陽の園」 がある。ここには、マテバシイ、クロマツ、モチノキ、クロガネモチ等の樹木が植えられており、この一角に館林町道路原標が建っている。

足利町 琴平神社 法輪寺 法高寺
本町二丁目交差点から150m程先に本町一丁目交差点があるが、その手前右手に足利町案内碑が建っている。案内碑には、「この通りに面した街並みは、城下町町割りにあたった小林彦五郎をはじめとする下野国足利出身の人々が居住したことから足利町と呼ばれた。」 と記されている。 本町一丁目交差点を過ぎて最初の右手筋を入ると、左手に琴平神社がある。琴平神社の由緒等は不明であるが、境内には、文化13年(1816)の地蔵菩薩坐像、表面の一部が欠けた馬頭観世音碑がある。境内の片隅には神輿蔵があり、昭和45年発足のかしわ会の神輿が収蔵されている。 街道に戻って進み、次の信号交差点を右折して行くと、左手に曹洞宗の法輪寺がある。法輪寺の由緒等は不詳であるが、かつて法林寺と称していたが、延宝3年(1675)に現在地に移転する際に、法輪寺と改めたと言われている。境内には、閻魔大王像、地蔵菩薩像などの石造物がある。 法輪寺の東側に隣接して日蓮宗の金隆山法高寺がある。法高寺は、弘安4年(1281)日蓮上人が巡錫の折、青柳地区の人々が教えを受けるため仮堂を建てたのが始まりと伝えられている。境内には、瘡守(かさもり)稲荷神社のほか、南無妙法蓮華経題目碑、浄行菩薩、日蓮上人像などの石造物がある。

台宿 熊野神社 返照寺台宿墓地 五宝寺
街道に戻って進むと右手に台宿案内碑が建っている。案内碑には、「宿とは外来の諸職や行商人などの仮住の地のことで、高台にあったことから台宿と呼ばれた。」 と記されている 台宿案内碑の直ぐ先、右手筋を入ると正面に熊野神社がある。熊野神社の創建年代等は不詳であるが、境内は法輪寺の西側に隣接した場所にある。 街道に戻って次の右手筋を入ると、右手に返照寺(館林市緑町)の台宿墓地があり、三猿が刻まれた庚申塔、一面六臂の青面金剛の庚申塔などが安置されている。 街道に戻って100m程先の信号交差点を左折すると、右手に新義真言宗の如意珠山五宝寺がある。五宝寺は、永仁5年(1297)讃岐国善通寺の俊清和尚の開基といわれ、江戸時代後期には末寺40数ヶ所をもつ寺院だったという。境内には、永仁5年造立の「不動まんだら板碑」、歓喜天を祀る聖天堂のほか、青銅製燈籠、青銅製地蔵菩薩などがある。

長良神社 長良神社 佐野口御門跡 道標・馬頭観音
五宝寺の西側に代官町の長良神社がある。長良神社の主祭神は平安時代の公卿藤原長良で、東国平定のため下向し、上野国の国主として民衆に仁政を施した。死後は大和国春日大社の末社として祀られ、その後、館林城主赤井照光の時代に、この地に長良神社を勧請し、現在に至っている。合祀されているのは17社で、境内には織姫神社、琴平神社の境内社がある。 街道に戻って信号交差点の40m程先の右手筋を入ると、左手に台宿町の長良神社がある。館林にたくさんある長良神社の由緒は、全てが平安時代の公卿藤原長良に由来するものである。境内には、三峯神社のほか稲荷大明神と刻まれた三連の石祠がある。 街道に戻って150m程進むと、ドラッグストアの手前右手に佐野口御門跡がある。ここは館林城下の出入口の一つで、徳川綱吉が城主の頃は立派な櫓門が建ち、枡形の形態で堀と石垣を構えた堅固な門であったという。この佐野口御門跡碑の後ろは、今でも土塁跡が確認できる。 佐野口御門跡の先で水路を渡り、その先で信号交差点を越えると、前方に向って3本に別れる道がある。街道は右側の道を進むが、中央の道の左手に石碑が2基建っている。左側は道標で、正面に 「上早川田・らいでん道」 と刻まれ、右側は馬頭観音で道標を兼ねており、「右さの・とちき道」 「左かんま・ひこ満道」 と刻まれている。、

東武佐野線踏切 早川田遊水池 黒板塀の旧家 天王神社
道標・馬頭観音から北東へ向かう直線の道を900m程進み、東武佐野線の佐第14号踏切道を渡る。東武佐野線の北西側は一面の水田が広がっており、踏切の右側は東武鉄道の資材管理センターがあり、引込線上に電車が見える。 先に進むと左手に水田が広がり、広域農道を渡ると左手に早川田遊水池がある。平成12年~平成22年に実施された国営渡良瀬川中央農地防災事業により、農地への溢水、湛水を未然に防止することにより、農業生産の維持及び農業経営の安定を図ることとしたという。 先に進むと渡良瀬川の堤防が見えるところの右手に黒板塀の旧家が建っている。この旧家の植栽の前に石燈籠と享保12年(1727)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。 黒板塀の旧家の先の右手筋を入ると、県道7号の高架の脇に天王神社がある。天王神社の由緒等は不明であるが、境内には斜交いを付けた石祠や日露戦役凱旋紀念碑などがある。

馬頭観音 渡良瀬大橋 田中正造翁之墓入口 旧復帰
街道に戻って渡良瀬川の堤防上に出ると、かつて渡船で渡っていた辺りに、ひと際大きな安政5年(1858)の馬頭観音を中心に、数基の馬頭観音、出羽三山碑、水神宮石祠などの石造物がある。 馬頭観音の先で県道7号に合流し、渡良瀬川に架かる渡良瀬大橋を渡っていく。渡良瀬大橋は、手前の矢場川と渡良瀬川の両方に架かる橋である。矢場川は群馬県太田市に源を発し、途中、藤川、多々良川を併せ、渡良瀬大橋下流で渡良瀬川に合流している。渡良瀬川は栃木県と群馬県との境にある皇海山に源を発し、下流で利根川に合流している。なお、渡良瀬大橋は上下流別々の橋が架けられている。 渡良瀬大橋の渡詰めに義人田中正造翁之墓入口標柱が建っている。ここから200m程川沿いに進んだ雲竜寺に墓があるが、ここは寄らずに先に進んだ。 田中正造翁之墓入口標柱から渡良瀬大橋の下流側に出て旧道に復帰した。右手には東武野田線が並行している。

椿田稲荷神社鳥居 田中正造翁終焉の地碑 椿田稲荷神社 竹林脇の街道
旧道を進むと左手に椿田稲荷神社の石鳥居が建っている。参道は県道7号で分断されており、横断できないので街道の先の信号交差点を渡ることとする。 鳥居前を通過して100m程進むと、県道7号の手前左手に田中正造翁終焉の地碑が建っている。田中正造翁は運動の途中倒れ、大正2年(1913)9月4日、椿田稲荷神社鳥居の手前の庭田清四郎宅で満71歳の生涯を閉じた。この碑の傍らには、男女双体道祖神、三毳山夜曲碑が建っている。 田中正造翁終焉の地碑の前で県道7号を渡ると、左手の窪地に椿田稲荷神社がある。当社の創建年代等は不詳であるが、境内にはたくさんの奉納鳥居とたくさんの稲荷社石祠が所狭しと並んでいる。 椿田稲荷神社から街道に戻り、左手を流れる才川に沿って進んでいく。先に進むと才川の対岸にある東京電力佐野変電所に渡る椿田橋の前を通り、その先で才川の対岸にある㈱大脇精工、㈱友和、㈱鉄鋼社などの工場・営業所へ渡る羽田大橋前を通って行く。才川は佐野市石塚町に源を発し、途中でいくつもの湧水を合流し、渡良瀬大橋のところで渡良瀬川に合流している。

椿田十一面観音福地堂 椿田城址標識 椿田城址 東武佐野線踏切
羽田大橋前を通過して間もなく右手の木々の間に椿田十一面観音福地堂と冠木門が見える。ここから下に降りることは出来ないので、先まで行って折り返すしかなさそうだ。 旧道を右手に降りて水路に架かる石橋を渡ると、渡詰め右手に椿田城址への標識が建っている。 椿田城址標識からほぼ羽田大橋付近まで戻ると、先ほど木々の間から見えた冠木門と椿田十一面観音福地堂がある。椿田城は永禄3年(1560)唐沢城の出城として構築され、川越、忍、館林方面に対する抑えとして、代々福地氏が城主となっていた。 街道に戻って150m程進んだところで水路に架かる橋を渡り、更に350m程先で県道7号を横断すると東武佐野線に突き当り、佐第23号踏切道で渡っていく。

道標 佐野バイパス高架 街道に沿った水路 東武野田線踏切
東武佐野線の踏切を渡って間もなく、水路が横切るT字路に突き当たるが、この右角水路脇に道標が建っている。近寄って確認することが出来ない場所に建っており、文字は判読できないが、「左・・いたくら五里半」「右・・・一里半」「明治35年12月」 と刻まれているようである。 道標のあるT字路を左折して直ぐ佐野バイパス(国道50号)の高架下をくぐっていく。この高架の手前右手には小さな墓地があり、地蔵菩薩立像が建っている。 佐野バイパスの先の旧道脇には、水路が500m程並行して流れており、途中、左手に東武佐野線の田島駅がある。東武鉄道の案内によると、貞享元年(1684)、下総古河の藩主堀田正俊の次男である正高が、安蘇・都賀両郡において1万石を与えられて入部した佐野藩再興に伴い、田島村・植野村・赤坂村が佐野領に組み入れられ、駅名は田島村が由来になっているという。 左手を流れる水路が東武野田線の下をくぐって北上すると、その直ぐ先で街道は東武野田線の佐第25号踏切道を渡る。

新海陸橋 海陸橋 東光寺 法雲寺
東武野田線の踏切を渡ってどんどん北上していくと、右前方に県道270号が通る新海陸橋が見えてくる。、街道は新海陸橋の一つ上流の海陸橋を渡っていく。 海陸橋は秋山川に架かる橋で、橋の上流側左手の堤防は、令和元年(2019)10月の台風19号により決壊した。秋山川は、栃木県佐野市と群馬県みどり市との境に源を発し、下流で渡良瀬川に合流している。 海陸橋を渡って間もなく右手に臨済宗建長寺派の亀峰山東光寺がある。東光寺は、最澄(伝教大師)の開山で、円澄が開基といわれている。その後、康元元年(1256)に建長寺第7世大円が臨済宗寺院として再興し、現在に至っているという。中門は堀田佐野城の大手門を廃藩置県に伴い、堀田家の菩提寺である東光寺に移築したという。 東光寺に隣接して臨済宗建長寺派の亀峰山法雲寺がある。東光寺境内を歩いていると、いつの間にか法雲寺の山門前にいるというほど境内地に境目がない。法雲寺は、天台宗の伝教大師最澄が、延暦年間(782-806)に東光寺と共に創建した寺院である。また、徳川家康の日光埋葬に際しては、当寺に仮安置されたという。境内には薬師堂があり、山門前には馬頭観音、庚申塔などの石造物がある。

普門院 旧佐野陣屋裏門 鷹部屋稲荷神社 旧家
街道に戻って北西に真直ぐ、途中にY字分岐もあるが真っすぐ500m程進むと、右手に天台宗の花林山延命寺普門院がある。普門院は、元亀3年(1572)が開基で、耀陽律師が開山と言われている。境内には特に石造物も無く玉砂利が敷かれただけであるが、本尊の鏡延命地蔵尊は、享保年間(1716-36)の末頃建立された地蔵菩薩半跏像で、栃木県重要文化財に指定されている。 普門院から120~30m程進んだ木塚薬房のある十字路を左折すると、柳川医院の隣に旧佐野陣屋の裏門が移築されている。この門も東光寺の中門と同様に、廃藩置県に伴いここ赤坂町に移築されたものである。 旧佐野陣屋裏門から少し西に入ったところに鷹部屋稲荷神社がある。「鷹部屋」 とはこの辺りの地名なのか、鷹狩りとかに関係するのか、全く不明である。境内には、出羽三山碑、稲荷大明神石祠などの石造物がある。 街道に戻って100m程進むと左手に黒板壁に連子格子の旧家が建っている。

道標 車止め? 宝龍寺 金山神社
旧家の斜向かいの筋角に道標が建っている。この道標は、明治5年(1872)に建てられたもので、「右たてばやし二里・かはまた三里半」、「左まかど・こいな一里、ふじをか二里丗丁・ごが五里」 と刻まれている。 道標の斜向かいの筋角にある柳川歯科医院の前に、一見道標のような石柱が建っている。台座に乗っているのは砂利石が混ざった石柱なので、橋の親柱かも知れない。 直ぐ先で東武野田線の佐野市駅方向から北上して来た道と合流すると、間もなく右手に浄土宗の一渓山東根院宝龍寺がある。宝龍寺の創建年代等は不詳であるが、境内には、三十三観音や元禄7年(1694)鋳造の銅造阿弥陀如来坐像などがある。 宝龍寺の先で信号交差点を渡り、直ぐ左手の筋を入ると正面に金山神社がある。金山神社は、天命鋳物が最も栄えた寛保2年(1742)に創建され、「かねがみさま」 と呼ばれて鋳物師や住民の厚い信仰を集めていたという。その後、明治5年(1872)に神社は無格社に列せられ、金井上町の鎮守となった。

八坂神社 観音寺 佐野厄除け大師 太田家住宅
街道に戻ると右手に大祝町公民館があり、敷地内には神輿を納めた八坂神社と防火稲荷大明神がある。防火稲荷大明神の隣には、巣鴨のとげぬき地蔵の分身の地蔵尊が祀られている。 八坂神社の先の信号交差点を左折すると、左手に真言宗豊山派の日輪山千手院観音寺がある。観音寺の創建年代等は不詳であるが、境内には佐野大仏と呼ばれる銅造阿弥陀如来坐像がある。この仏像は、江戸時代初期における天命鑄物の名作である。また境内には、線刻の千手観音像、弘法大師像、大黒天などがある。 観音寺の並びに一般に佐野厄除け大師と呼ばれる、天台宗の春日岡山天法輪院惣宗寺がある。惣宗寺の開基は平将門の乱を平定した藤原秀郷で、開山は宥尊(ゆうそん)上人と伝えられている。ご本尊は如意輪観音で、厄除け大師とは第18世天台座主を務めた良源を指している。境内には、金銅大梵鐘、田中正造の墓、パゴダ供養塔、麗水観音、水子地蔵尊などがある。 街道に戻って信号交差点の先に進むと、直ぐ左手に重厚な造りの太田家住宅がある。この辺りは天明宿の中心部で、太田家は弘化3年(1846)に呉服太物商を創業した。今の建屋は明治8年(1875)頃に建てられたもので、外壁は土蔵造りで黒漆塗りの見世蔵構造である。令和3年(2021)に国の登録有形文化財に登録された。

例幣使街道合流 佐野城址 佐野駅
太田家住宅の先で通りを一本渡ると、その先の本町交差点で例幣使街道に合流する。ここが日光脇往還の終点である。 本町交差点から600m程の距離に東武野田線の佐野駅があり、その北側に佐野城址があるので寄って行くこととした。佐野城は、藤原秀郷の曽祖父の下野守藤成が延暦9年(790)に城を築いたのが始まりと言われている。その後、藤原秀郷は平将門討伐を祈願して春日岡山惣宗寺を建立したが、慶長7年(1614)に佐野信吉がここに築城したため、惣宗寺は現在地に移転したという。 佐野城址を出て最寄りの佐野駅から帰宅の途に就いた。佐野駅は、JR東日本の両毛線と、東武鉄道の佐野線が乗り入れる接続駅である。

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