釣瓶井戸

 550年前、周囲5㎞の東西に細長い城沼を天然の要害として館林城が築かれた。城沼は館林城の建つ台地を取り囲む外堀の役目をし、武将たちにとって 「守りの沼」 となった。沼によって守られた堅固な城は、近世になると江戸を守護する要衝として、徳川四天王の榊原康政や、5代将軍となる徳川綱吉の城となり、守りを固めるための城下町を拡げ、その周囲に水を引き入れ、堀と土塁で囲った。
 「守りの沼」 には、2つの伝説が生まれた。一つは龍神伝説である。沼に人を寄せつけないため、城沼は沼の主・龍神の棲む場となり、城下町はその伝説を伝える井戸が残る。もう一つはツツジ伝説である。今から400年程前、「お辻」 という名の女人が龍神に見初められ、城沼に入水した。それを悲しんだ里人は沼が見える高台にツツジを植え、その地を 「躑躅(つつじ)ヶ崎」 と呼んだ。歴代の館林城主はそこにツツジを植え続け、花が咲き誇るようになった高台を築山に、城沼を池に見立てた雄大な回遊式の大名庭園を造り上げた。城主によって守られてきた躑躅ヶ崎は 「花山」 とも呼ばれ、花の季節には里人たちにも開放された。
 明治維新後の近代化は、「守りの沼」 を大きく変貌させた。江戸時代に禁漁区となって人を寄せつけなかった城沼は、里人たちに開放されて漁労や墾田、渡船などが営まれ、「里沼」 としての歴史を歩み始めた。

 館林城は、「城沼(じょうぬま)」 を自然の要害とした平城で、別名を 「尾曳城(おびきじょう)」 という。
 その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭、南郭を置き、これを取り囲むように、稲荷郭、外郭、惣曲輪を構え、さらにその西方の台地に 「城下町」 を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。
 築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたものの中に、「赤井照光」 によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」 と相俟って広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は現在まで発見されていない。現在確認されている 「館林城」 について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471)に上杉軍が 「赤井文六・文三」 の居城である 「立林(館林)城」 を攻略したという記録である。
 その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つ巴の攻防の中で、「長尾氏」 「北条氏」 などが館林城を支配するようになった。
 天正18年(1590)の徳川家康関東入府に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」 は、利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が5代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた7家の居城として栄えた。
 城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の 「千貫門」 に対し、通用門として使用されたものである。
 この土橋門は、昭和57年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により3基の門の基礎と2基の井戸が発見されている。また、門と併せて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
 特に門からカギの手状に延びる土塁は、「蔀土塁(しとみどるい)」 と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことが出来ないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。
(館林市教育委員会)

館林城跡碑

三の丸土橋門

秋元藩主時代(1845-69)の館林城図

城郭は城沼の中に位置している

館林城跡説明

館林の 「里沼」 説明