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日光脇往還   (行田~館林


令和4年6月13日(月)   ☀    行田~館林    14.0㎞
関東が梅雨入りして一週間経ち日射しのいない日々が続いているが、本日は夕刻まで晴れ間があるという天気予報により、急遽、前回の続きを歩くこととした。行田(忍宿)から先は、新郷宿(須永家本陣跡のシイノキ)、利根川を渡ったところの川俣宿(塩谷家本陣跡)、そして館林宿と続いていく。

保泉蔵 十万石ふくさや 愛宕神社 大長寺
行田市駅から10分程で前回終了した保泉蔵前に出てスタートである。「この行田随一の蔵並みは、かつて行田一の足袋原料商であった保泉商店の足袋の原料倉庫群です。保泉商店は明治35年に創業し、明治42年に手前側の土蔵を買い取って移転しまし。そして大正5年に間口10間・奥行3間の奥の土蔵を新築、昭和元年2月には大谷石の店蔵を、昭和7年に一番奥の石蔵を建設し、西側を塗り壁で繋いでこの蔵並みを完成させました。」(説明板より) 保泉蔵の直ぐ先で行田郵便局入口交差点を渡ると、左手に海鼠壁が目立つ十万石ふくさやがある。「この店舗は、呉服商山田清兵衛商店の11代山田清兵衛(伊三郎)によって、明治16年7月16日に棟上げされたもので、行田では珍しい江戸様式の店蔵です。昭和27年より足袋蔵となり、昭和44年に曳屋されて十万石の店舗となりました。その後なまこ壁が設けられ、平成24年の修理で白壁となしました。行田を代表する重厚な店蔵で、国登録有形文化財に登録されています。」(説明板より) 十万石ふくさやから250m程先の左手筋角に、「村社愛宕神社」 社標が建っており、この筋を50m程入ると、右手に愛宕神社がある。愛宕神社の創建年代等は不詳であるが、境内に長徳寺跡碑があり、かつて愛宕神社の別当寺である長徳寺があり、明治期に廃寺となり愛宕神社のみが残ったという。境内には天満宮、稲荷神社の境内社のほか、行田酉之市起源碑などがある。 街道に戻り50m程進むと左手に旧道口があるが、そのまま50m程先に進むと、右手に浄土宗の亀通山行田院大長寺がある。大長寺は、元亀年間(1570-73)に京都知恩院第29世岌善(きゅうぜん)上人が奥州へ巡業の折、当地へ滞留し創建したと言われている。当寺は、寛永16年(1639)から文政6年(1823)まで忍藩主を勤めた阿部豊後守の菩提寺であった。境内には、平成8年再建の身丈3.6mの大仏のほか、塩地蔵尊、芭蕉句碑などがある。

旧道口 長野口御門跡碑 小沼橋 厳島弁財天
大長寺を出て50m程戻って旧街道に復帰する。 旧道に入って120~30m程先でT字路に突き当り、右に折れると忍川の手前にポケットパークがあり、長野口御門跡碑が建っている。傍らには、船着き場跡碑、子規句碑などが建っている。 船着き場跡碑の前を流れる忍川に小沼橋が架かっている。忍川は、JR上熊谷駅付近の市街地に源を発し、上流では星川と呼ばれ、下流で元荒川に合流する延長11㎞程の一級河川である。 小沼橋を渡った左手に厳島弁才天がある。厳島弁才天の由緒等は不明であるが、境内はよく整備されており、今を盛りにアジサイが見事に咲き誇っている。

横田酒造 東行田駅 踏切 畑中稲荷神社
厳島弁財天の先を500m程進むと、右手に文化2年(1805)創業の横田酒造がある。横田酒造は、江戸に下った近江商人・横田庄右衛門が良水を求めてこの地に造り酒屋を開いたのが始まりという。主な銘柄に 「日本橋」 「浮城」 があり、土日を除く平日は予約制で酒造見学が出来るという。 横田酒造の直ぐ先の十字路を左折して程なく左手に平屋建ての秩父鉄道東行田駅がある。 東行田駅の先は、秩父鉄道の武州荒木No.16踏切である。 武州荒木No.16踏切の手前右手筋を入っていくと、畑中稲荷神社がある。ご祭神は宇迦之御魂神で五穀豊穣・商売繁盛の神である。簡素な社殿には狛狐が祀られ、傍らには大東亜戦争戦捷記念と刻まれた寄附金芳名碑が建っている。

長久寺 久伊豆神社 県道7号 観音前橋
踏切を渡った左手に真言宗智山派の應珠山擁護院長久寺がある。長久寺は、文明年間(1469-87)に成田氏14代下総守顕泰が開基、僧通傳が開山となり、創建したと伝えられている。長久寺の本堂は、天正18年(1590)石田三成忍城水攻めの際、兵火により焼けたのを始めとして再建・消失を繰り返し、現在の堂宇は弘化5年(1848)に建立したものである。境内には、六地蔵尊、聖観世音菩薩立像、二十二夜塔などの石造物がある。 長久寺の北側に隣接して久伊豆神社がある。久伊豆神社は、成田氏14代下総守顕泰が忍城築城の際に鬼門の守護神として、文明年間(1469-87)に創建したと言われている。境内には、昭和30年(1955)に楯場から遷座した赤飯稲荷神社のjほか、神楽殿、市指定天然記念物の藤がある。 久伊豆神社前の旧道は県道7号で、横田酒造の前を左折して北へ向かっている。 久伊豆神社から行田バイパスを越えて1.2㎞程進むと、水路に架かる観音前橋がある。観音前とは、直ぐ先の真観寺の観音堂を指している。

真観寺 虚空蔵山古墳 武蔵水路 棒川橋
観音前橋を渡って直ぐの十字路を右折すると、左手に真言宗智山派の慈雲山福聚院真観寺がある。真観寺は、坂上田村麻呂が開創したという言伝えがあり、以後、幾多の変遷を繰り返し、鎌倉時代に瀧憲鏡阿闍梨により開山・中興されたと言われている。境内には、小見真観寺古墳を背にした観音堂があり、木造聖観世音菩薩立像が祀られている。観音堂へ続く仁王門は修繕中でネットに覆われていた。 街道に戻り130~40m程進むと、街道が東へ曲がるところの左手に虚空蔵山古墳がある。この古墳は、小見古墳群に属する前方後円墳で、小見真観寺古墳の北西に隣接している。墳丘の上には虚空蔵山古墳の名前の由来となった虚空蔵菩薩が祀られている。 虚空蔵山古墳から東へ曲がって300m程進むと、武蔵水路に架かる武蔵橋がある。武蔵水路は、行田市の利根大堰で利根川から取水され、下流で荒川に合流する全長14.5㎞の水路である。この水路は水量が多く、流れが速いうえに2本並行したような構造になっている。これは点検・修理の際に片方のみを止めて、もう片方を流すことで通水を確保するためとのことである。 武蔵水路を渡って300m程進むと、星川に架かる棒川橋がある。棒川橋の 「棒川」 は川の名前ではなくこの付近の小字とのこと。棒川橋の下を流れる川は 「星川」 と河川標が貼られているが、見沼代用水のことである。見沼代用水は、徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛によって、享保8年(1728)に造られた農業用水路である。伊奈忠治が造った見沼溜井の代りとして造られた用水なので 「見沼代用水」 となったという。

東福寺 記念碑 琴平神社 天洲寺
棒川橋の渡詰め左手に真言宗智山派の薬王山東福寺がある。東福寺は、僧賢真が開山となり、創建したと言われている。境内には、聖天堂、弘法大師像が建つお砂踏み場のほか、六地蔵尊、宝篋印塔、二十二夜塔などの石造物がある。 東福寺を出ると直ぐ左手のリサイクル物集積地の脇に、昭和29年3月31日建立の行田荒木合併記念碑が建っている。 記念碑から150m程北東に向かった道を進むと、左手の横町会館の脇に琴平神社がある。琴平神社の由緒等は不明であるが、境内には狐が祀られた稲荷社、榛名山石碑が祀られた榛名社などがある。 琴平神社のにY字路があるが、右手を直進してT字路を右折すると、右手に曹洞宗の聖徳山天洲寺がある。天洲寺は、荒木長善の子八左衛門が開基で、清善寺5世天洲全尭和尚が開山となり、慶長12年(1607)に創建したと言われている。境内の大師堂には、国指定文化財の木造聖徳太子立像が祀られている。

道標 天満宮 庚申塔・馬頭観音 愛宕神社
T字路に戻って進むと右手の武州荒木駅方向から来る筋との合流点に道標が建ている。この道標は新しいもので、「ぶしゅうあらき入口」 と白い文字が書かれている。 道標から200m程北に向かって真っすぐの道を進むと、右手に天満宮(荒木天満天神社)がある。天満宮の由緒等は不明であるが、境内には浅間神社の富士塚、天王社、稲荷社の境内社のほか、塞神、東昭大神宮石祠、辨才天、馬頭観音碑などの石造物がある。 天満宮から400m程進んだ荒木交差点の左角に庚申塔と馬頭観音が建っている。左手の文字庚申塔は寛政5年(1793)のもので、右の馬頭観音は寛政6年(1794)のものである。 街道は荒木交差点を右折するが、庚申塔・馬頭観音の先を100m程直進すると左手に愛宕神社がある。愛宕神社の創建年代等は不詳であるが、東福寺が別当を務めていたといわれ、社殿は段上に建てられている。

稲荷神社 荒木土地改良記念碑 羽生市 祥雲寺
街道に戻って荒木交差点を右折すると直ぐ右手に稲荷神社がある。稲荷神社は街道に背を向けて南側を向いている。稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、境内には針金で囲われた狛狐が建っている。 街道に戻ると程なく左手に大きな荒木土地改良竣工記念碑が建っている。この先は街道の左右に水田が広がり、吹いてくる風も爽やかである。 荒木土地改良竣工記念碑から程なく、羽生市道路標識があり、ここで行田市から羽生市へと入っていく。この道路標識の手前右手に旧道口があるが、この旧道は350m程先で再び県道に合流する。 羽生市に入って直線の道を1.3㎞程進むと、左手に曹洞宗の高木山祥雲寺がある。祥雲寺は、慶長9年(1604)の創建といわれ、通称では 「西寺」 と呼ばれている。宝暦11年(1761)再建の本堂には羽生市指定文化財の木造聖観音立像を安置し、境内には六地蔵石幢、宝篋印塔、一石六地蔵尊、大乗妙典六十六部供養塔などの石造物がある。

稲荷神社 本陣跡 豊明橋 愛宕神社
祥雲寺の東側に隣接して稲荷神社がある。稲荷神社の由緒等は不明であるが、拝殿には御蔵場稲荷神社の扁額が掛かっていることから、江戸時代飢饉に備えて穀物を蓄えた郷蔵があったところではないかと考えられる。。 稲荷神社の先の上新郷交差点を左折すると、行田宿と舘林宿の間の宿である新郷宿となり、上新郷交差点から350m程先の左手に本陣を勤めた須永家の本陣門跡がある。須永家には、徳川斉昭の和歌、佐藤延昌の箱書、黒沢翁満の書、富士山の図などの文化財が所蔵されているようであるが、外から確認できるものは、推定400年のシイノキと傍示杭 「従是西忍領」 がある。 本陣跡から150m程先で水路に架かる豊明橋を渡っていく。橋の下流側に歩道があるが、上流部は古いコンクリートの親柱が残る欄干が残っている。 豊明橋を渡って進むと、ほぼ正面に愛宕神社が見えている。ここは県道7号と県道59号の交差する愛宕神社前交差点であり、愛宕神社は県道59号を渡った交差点の右角に鎮座している。愛宕神社の創建年代等は不詳であるが、境内には根本神社、寄木神社などの境内社のほか、延宝5年(1677)の石鳥居、明治34年(1901)の常夜燈などの石造物がある。

松並木 並木橋 奇北句碑 塞神社跡
愛宕神社前交差点から程なく左手に松並木が続いている。この松並木は、寛永5年(1628)に徳川家光が日光東照宮を参拝の折り、時の忍城主が家臣の勘兵衛に景観を整えるために松を植えさせたもので、「勘兵衛マツ」 と呼ばれている。松並木の間に隠れるように 「勘兵衛松碑」 があり、傍らに説明板が建っている。 松並木の先を進むと埼玉用水路に架かる昭和42年(1967)12月竣工の並木橋がある。埼玉用水路は、利根川の利根大堰から引いた水で、この用水路が開削される前に直接取水していた羽生領用水路、葛西用水路、古利根用水路、稲子用水路へ供給する農業用水路として昭和43年(1968)に開削された用水路である。並木橋は車専用橋で、上流側・下流側にそれぞれ広い側道橋が設けられている。 並木橋を渡って更に進むと、松並木の間に細長い昭和11年(1936)建立の句碑がある。この句碑は、「二歳駒買われて来たり春渡船」 と刻まれた川島奇北の句碑である。川島奇北は、本名を川島得太郎といい、明治31年(1898)高浜虚子の紹介で正岡子規の門弟となり、埼玉県の明治俳壇三傑の一人と言われている。 奇北句碑の先に塞神社跡がある。当地には、万延元年(1860)12月建立の塞神社の石祠があったという。案内板に記載があり、現在、当地にあった塞神社石祠は、手前にあった愛宕神社の境内社の中に安置されている。

石仏群 大石橋 川俣関所跡 川俣締切阯
先に進むと大石橋の手前左手に覆屋があり、中に享保3年(1718)の千手観音、安永2年(1773)の如意輪観音、正徳3年(1713)の地蔵菩薩のほか2基の石塔が安置されている。 石仏群の直ぐ先を流れる水路に大石橋が架かっている。 大石橋を渡って400m程進むと、左手堤防脇に川俣関所跡があるはずであるが、現在、この旧跡には何も無く、「川俣関所跡の石碑等については、堤防強化工事のため、一時的撤去いたしました。工事終了後の再設置場所は、現在検討中です。」 とビニール袋に入った羽生市教育委員会の案内紙があるのみである。 川俣関所跡から先は渡船であったが、現在は昭和橋で渡っていく。橋を渡る前に国道122号を横切って 「道の駅はにゅう」 の所にある川俣締切阯へ寄って行く。かつて利根川はこの地点で2つに分かれており、幹川(会の川)は南に流れ、派川は東に流れていた。文禄3年(1594)忍城主松平忠吉は小笠原三郎左衛門に命じて幹川を締め切らせた。川俣締切阯碑の隣には、「〆切神社」 と刻まれた石碑が建っている。

昭和橋 川俣宿 本陣跡 真如院
川俣締切阯から昭和橋で利根川を渡っていく。昭和橋は、上流側・下流側にそれぞれ二車線の独立した橋で構成され、長さは659mあり、歩道部は3.5mの広さがある。ここでは下流側の橋を渡って行くこととした。橋の途中で埼玉県から群馬県へと入っていく。 昭和橋の渡詰めを右に進むと、左手に川俣宿並みが広がっている。川俣宿は、利根川沿いに渡船場が存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、利根川水運の河岸としても栄えた。写真で見ても両側に家並みが密集しているが、これは江戸時代の宿場の名残である。 川俣宿の入口左手に旧本陣塩谷家がある。旧本陣の遺構は残っていないが、屋敷門と白壁の塀が名残を留めている。 本陣跡の東側筋を入ると、左手に真言宗の神明山真如院がある。真如院の創建年代等は不詳であるが、ここは明治33年(1900)の足尾銅山の鉱毒事件(川俣事件)で負傷した農民を手厚く介護した所である。境内には地蔵堂のほか、馬頭観音、青面金剛供養塔、宝篋印塔などの石造物がある。

粟島神社 川俣事件衝突の地 旧道口 不動堂
街道に戻って50m程進むと、左手に粟島神社の鳥居があり、鳥居から西に100m程の参道を進んだところに社殿がある。粟島神社の創建年代等は不詳であるが、境内には明治34年(1901)の狛犬、境内社の浅間神社(富士塚)、三峯神社などがある。 粟島神社の先は、川俣の宿並みが真っすぐ北に向かって延びている。粟島神社から300m程先右手にポケットパークがあり、川俣宿案内板、川俣事件衝突の地碑、川俣事件記念碑などが建っている。 川俣事件衝突の地から500m弱進むと、大佐貫南交差点に出るが、旧道は、左手の国道122号と右手の県道368号の間の細い道を通って行く。 旧道に入って400m程進むと県道361号に突き当り、右折すると長良公園の脇に不動堂がある。この辺りは鎌倉時代の大佐貫館があったと言われる所である。不動堂境内には、延宝8年(1680)の一面六臂の青面金剛の庚申塔、正徳3年(1713)の地蔵菩薩立像などがある。

長良神社 東光寺 阿弥陀三尊板碑 石仏石碑群
街道に戻って県道361号を横断すると、左手に長良神社がある。長良神社の創建年代は不詳であるが、上野国の国主であった藤原長良を祀っているという。鳥居前には延享2年(1745)の東光寺13世建立の大乗妙典供養塔がある。境内には文字庚申塔、一面六臂の青面金剛の庚申塔、道祖神石祠などの石造物がある。 長良神社の西に隣接して真言宗豊山派の東光寺がある。東光寺の創建年代等は不詳であるが、隣接する長良神社との間に十一面観音堂があり、墓地口には地蔵菩薩立像が建っている。 街道に戻って250m程進むと、右手の民家入口に阿弥陀三尊板碑標柱が建っている。標柱は明和町教育委員会が建てたもので、昭和56年4月7日指定、明和町指定重用文化財と記されている。 阿弥陀三尊板碑標柱の直ぐ先、左手の矢島公民館の一角に庚申塔、馬頭観音、地蔵菩薩、観音菩薩などの石造物がある。これらの石造物は、日光脇往還の路傍に在ったものを安置したものと思われる。石造物の後ろは、門扉が閉じられた墓地になっており、入口脇に地蔵堂がある。

長良神社 富士山供養塔 青柳橋 稲荷神社
石仏石碑群の直ぐ先は十字路になっており、この右角に長良神社がある。長良神社の創建年代等は不詳であるが、境内には境内社の根本山神があり、その脇に出羽三山碑、食行霊神碑、石祠などの石造物がある。 長良神社の先を流れる矢島排水路に架かる天神橋の渡詰めに一本の松の木があり、その根元に富士山供養塔が建っている。富士山供養塔の左右側面には、文字が刻まれているが安政4年以外は判読が難しい。 富士山供養塔から350m程先で県道7号に合流し、その先で谷田川に架かる青柳橋を渡って行く。谷田川は、群馬県邑楽郡千代田町に源を発し、下流の埼玉県加須市で渡良瀬川に合流している。青柳橋を渡ると舘林市へ入っていく。 青柳橋を渡って青柳集落に入り450m程進むと、右手に稲荷神社碑が建っている。

龍積寺入口 茂林寺入口交差点 茂林寺 密蔵寺
稲荷神社碑の先の左手筋角に麻疹地蔵尊入口と刻まれた龍積寺寺標があり、この筋の100m先のT字路を左折すると、左手奥に真言宗豊山派の八徳山龍積寺がある。龍積寺の創建年代等は不詳であるが、境内には薬師観音堂のほか、不動明王像、地蔵菩薩立像、庚申塔などの石造物がある。 街道に戻って500m程進むと茂林寺入口交差点である。この交差点を右折した1.2㎞程先に青龍山茂林寺がある。茂林寺には別の機会に行ったときの記録があるので、これを掲載しておく。 青龍山茂林寺は曹洞宗の寺院で、応永33年(1426)大林正道大和尚によって開山されたと伝えられている。応仁2年(1468)、青柳城主赤井正光は大林正道大和尚に深く帰依し、領地の8万坪を寄進し、改めて堂宇を建立し、青龍山茂林寺と号したという。当山は分福茶釜の寺として知られており、総門から山門に至る参道には、21体の狸象が並んでいる。 街道の先を800m程進むと、左手に真言宗豊山派の密蔵寺がある。密蔵寺の創建年代等は不詳であるが、境内には子守地蔵尊・厄除地蔵尊があり、傍らに地蔵菩薩を刻んだ供養塔が建っている。折しも本堂などの改修工事中だったので、早々に失礼した。

東武鉄道 長良神社 遍照寺 龍泉寺
街道に戻って300m程進んだ新宿二丁目交差点で国道354号を渡り、更に250m程先で東武鉄道の 「伊第298号踏切道」 踏切を渡っていく。 東武鉄道の踏切を渡って程なく、右手に長良神社がある。舘林に長良神社は数社あるようだが、この神社も藤原長良を主祭神としているようである。境内には、境内社の三峯神社のほか、猿田彦大神がある 長良神社の先を進むと街道右手筋に遍照寺の看板が建てられており、この筋を100m程入ると左手に真言宗豊山派の高鑰山遍照寺がある。遍照寺は、新田義重が創建したと言われ、天正18年(1590)に榊原康政が現在地に移して祈願所としたという。本尊は不動明王で北関東不動尊霊場第12番になっている。境内には、弘法大師像、波羅々童子像、聖観世音菩薩立像、大日如来像などがある。 街道に戻って170~80m程進むと、右手に単立寺院の無量山龍泉寺がある。龍泉寺の創立年代等は不詳であるが、境内には毘沙門堂があり、大乗妙典一千部供養塔、庚申塔などの石造物がある。

鶴生田橋 宵稲荷神社 青龍神社 青梅神社
龍泉寺の先で新宿一丁目交差点を渡り、そこから200m程進むと、鶴生田(つるうだ)川に架かる鶴生田橋がある。鶴生田川は、舘林市西部の多々良沼付近の水田地帯に源を発し、城沼を経て下流で谷田川に合流している。 鶴生田橋を渡り100m程進んだ右手筋を入ると宵稲荷神社があり、社殿は街道に背を向けて東を向いて建っている。宵稲荷神社は、本町の夜明け稲荷に対するもので、天文元年(1532)頃、赤井山城守により勧請、榊原康政により再建されたと伝えられている。 街道に戻り直ぐ先の館林駅入口交差点を左折すると、左手に青龍神社がある。青龍神社の境内には井戸があり、伝説によると、延宝年間(1673-81)に突然清水が噴き上がり、中から女官姿の 「青龍権現」 が姿を現したことから、「清流の井戸」 と呼ばれるようになったという。現在、この井戸は鉄扉で覆われ鍵がかけられている。 街道に戻って館林駅入口交差点から先に進むと、左手に青梅(あおうめ)神社がある。街道脇の寛政6年(1794)の標柱には、日本四社青梅天満宮と刻まれている。青梅神社は、菅原道真が大宰府に左遷された際、楊枝の先に梅の実を刺して東西南北にそれぞれ1個ずつ投げ、その内の一つが東に飛んで青梅神社になったという。境内には、寛永8年(1631)築・寛政6年(1794)再建の額殿(絵馬殿)などがある。

大道寺 竜の井 覚応寺 応声寺
青梅神社の西に隣接して浄土宗の白峰山大道寺がある。大道寺は、田山花袋の算術の師・戸泉鋼作ゆかりの寺である。戸泉鋼作は館林藩士戸泉善治の子として生まれ、明治13年k頃から青少年を対象に和算(算術・珠算等)を教えていたと伝えられている。境内には、国学者生田萬(よろず)の父祖の墓のほか、一面六臂の青面金剛の庚申塔、馬頭観音などの石造物がある。 大道寺の西側で、ほぼ館林駅前ロータリーに近いところに 「歴史の小径」 があり、ここに 「竜の井」 がある。歴史の小径は、平成14年度~平成20年度にかけて、館林駅~大手町(旧鷹匠町)までの1.5㎞の歴史散策路である。 舘林駅前まで来たところで、まだ陽が高いので近くにある寺院に寄って行くこととした。先ずは、舘林駅の北に位置する真宗大谷派の佛光山太子院覚応寺である。覚応寺は、鎌倉時代の武将佐々木盛綱(出家して西念と号する)の19世の孫に当たる林通が開山と言われている。境内には、太子堂のほか、南無阿弥陀仏名号塔等がある。 覚応寺から100m程北側に時宗の舘林山応声寺がある。応声寺の創建年代は不明確であるが、嘉元4年(1306)長福寺念佛道場として開かれたと伝わっているようである。境内には、寛文13年(1673)に時の城主徳川綱吉が城内及び城下町に時を知らせるために造った館林城鐘がある。

観性寺 館林駅
応声寺から120m程東に真言宗豊山派の寶塔山観性寺がある。観性寺は、元々この地に在った観音寺と自性院という2つの寺院が、明治の末に合併して観性寺となった。観音寺は天正4年(1576)、法印弘喜によって開山されたと伝わっている。山門の仁王門の先に本堂があり、左手に薬師堂と山王権現堂がある。境内には、二十三夜塔、一面六臂の青面金剛の庚申塔などの石造物がある。 今回はここで終了し最寄りの東武鉄道館林駅に出て帰宅の途に就いた。館林駅は城下町として栄えた館林の地名が由緒になっている。昔は三方が水に囲まれた高台の地形を 「たち」 といい、この地は森林で覆われていたので「舘野ヶ原」と呼ばれ、城名は 「舘林城」 であったが、弘化2年(1845)に 「舘」 が 「館」 に改められたという。

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