この宝篋印塔は、高さが4m89㎝程あり、宝珠下端より塔身にかけて 「祖師西来意」、塔身に 「瑞峰窓嘉元和九昭陽大淵歳南呂初九日」 と刻まれている。 「瑞峰窓嘉」
は、館林城主榊原(松平)忠次の母の法名で、善長寺の過去帳には、これに院殿の号を付して、「祥室院殿瑞峰窓嘉大禅定尼」 と記されている。
年号中 「昭陽」 は干支の 「癸」、「大淵」 は十二支の 「亥」、「南呂」 は8月の意味であることから、年号は 「元和9(1623)年8月9日」
ということになる。 「祥室院」 は、下総国関宿(現千葉県東葛飾郡関宿町)城主松平因幡守康元の娘で、榊原康政の長子である遠江国横須賀(現静岡県小笠郡大須賀町)城主の大須賀忠政に嫁ぎ、忠次を産んだ。
その後、夫忠政が慶長12年(1607)に病没すると、徳川家康の命により、伊賀国長島(現三重県員弁郡長島町)城主菅沼定芳に再嫁したが、元和9年(1623)に近江国膳所(現滋賀県大津市)で病没した。 忠次は、この時、榊原家の3代を継いで館林城主であったが、母の墓が遠くにあることを嘆き、菅沼家に分骨を請い、善長寺に墓石を造立したという。
墓域は、石塀で囲われ、墓前には2基の石燈籠が建てられているが、向かって左の石燈籠には、寛永10年(1633)の刻銘がある。平成8年度に解体修理を行った。
(舘林市教育委員会)
不動明王像
巨大な無縁塔
千葉周作の師・舘林藩士杉江鉄助の墓
六地蔵尊
水子地蔵尊
榊原康政(徳川四天王の一人館林城主)の側室お辻の方は寵愛を一身に集めていた。
ある日、お供の人々と共に舟遊びをしていた折に、沼の主に見込まれて侍女松と共に入水したという伝説が残されております。
康政公がその死を悼んでお辻を弔うために沼の丘に植えられた一株のツツジが、今日の県立つつじヶ岡公園の起源と言われております。
(境内案内より)
お辻と侍女松の供養石祠
お辻・松女の供養石祠覆屋
観音堂
曹洞宗巨法山善長寺沿革
本山 大本山永平寺、大本山総持寺
本尊 地蔵菩薩
当寺は、大永3年(1523)5月、館林城主赤井但馬守家範の開基によって創建され、開山は大雲惟俊大和尚である。元和9年(1623)8月、榊原家第三代館林城主松平忠次(徳川四天王榊原康政の孫、後の姫路城主)の生母が病卒し、当寺に埋葬された。
戒名「祥室院殿瑞峰窓嘉大禅定尼」。忠次は中興開基として荘田50石を寄進した。その後、将軍家光より大曲村(現板倉町大曲)の采邑地を50石の朱印に換えて与えられた。また、元禄8年(1695)2月、大本山永平寺より常恒会地の免牘(めんとく)を与えられている。
現在の本堂は、開創500年を期に、寺檀協力のもと平成29年(2017)に新築された。(境内説明より)
三面八臂の馬頭観音像を中心に周囲に馬頭観音碑が建ち並ぶ
館林城主榊原忠次の母祥室院殿の墓
観音堂に掛かる十一面観世音菩薩の扁額
山門に掛かる巨法山の扁額
寿老人
善長寺山門
正面の石組は三尊石組といい、阿弥陀如来と脇侍の観音・勢至両菩薩を現しており、手前の平石は礼排石である。(境内説明より)
白山妙理大権現
魚魂碑
蓬莱三尊仏の石庭
焼失前(文政8年)の姿に再建された鐘楼堂
善長寺本堂
本堂に掛かる善長禅寺の扁額