館林地域は江戸時代から綿花栽培が盛んで、農家の副業として機織りが行われ、城下町には多くの綿屋商人がいた。
明治時代以降、城下町に織物組合が結成されて町内に織姫神社を祀るとともに、「里沼」 のもてなし文化を支えた様々な織物が生まれ、なかでも 「館林紬」
は今も続く伝統工芸品となった。
祭神藤原長良公は贈太政大臣正一位藤原冬嗣公の長子で、権中納言兼左衛門督に任ぜられ、東国平治のため下向常に民衆を憐れみ、病を癒し、貧を救い、仁恵を施した。任満ちて帰京の後、斉衡3年(856)7月3日御年55歳で薨去す。
後元慶元年(877)左大臣正一位、重ねて同3年(879)太政大臣を贈られた。死後貞観11年(869)3月18日大和国春日大社の末社に列せられた。時に上野の住人赤井良遠なる者が長良公の余徳を慕い、本国に勧請せんと奏聞し、勅許を得て佐貫荘長柄郷瀬戸井村上の森に社殿を造営した。以後佐貫の人民をはじめ郡内の人民の信仰深く、分社するものが多く赤井山城守照光館林城主となるや、天福寺境内に社殿を造営して当地に勧請する。爾来領主代々氏子の崇敬厚く、社殿を修復し、境内の整備につとめ、社地の寄進等あり祭事の興隆に努力せられた。
享保5年(1720)正一位長良大明神の宣旨を賜り、明治6年1月郷社に列し長良神社と改称する。最近祭神長良公の余徳を慕い氏子をはじめ遠近より参拝するものも多く、館林市惣鎮守として社頭殷賑を極めている。
長良神社由緒
昭和3年(1928)の一の鳥居
二の鳥居
二の鳥居に掛かる郷社長良神社の扁額
天保2年(1832)の金毘羅大権現常夜燈
琴平神社
文政元年(1818)の常夜燈
織姫神社本殿
織姫神社と館林紬
覆屋に掛かる織姫神社の扁額
織姫神社本殿覆屋
織姫神社石鳥居
手水舎
安政6年(1860)の常夜燈
アジサイの花を浮かべた手水石
文化3年(1806)の常夜燈
阿形の狛犬
吽形の狛犬
拝殿に掛かる郷社長良神社の扁額
長良神社拝殿