三毳山(みかもやま)夜曲碑

乱開発等の説明碑

      水場 見守る 道祖神

 この地は佐野市船津川町1874番地、元は「水田」でした。 「鉱毒地鳥獣虫魚被害記」(明治31年)によると、渡良瀬川は上流の肥沃な土を運ぶ恵の川で、米・麦・魚がよく採れ、菜種は1.8mもの丈がありました。渡良瀬川流域は大変住みよい所でした。
 しかし、渡良瀬川上流・足尾の乱開発と、下流・千葉県関宿の川の流れを狭める工事が、明治29年前後の大洪水を引き起こしました。足尾銅山からの鉱毒流出と堤防決壊により耕作地を荒らし、椿田稲荷の池・他、多くの広い池沼が出来てしまいました。住家は水浸し、病人・流産が多く、毒草を食べた馬まで死に、生活ができずに他所に移り住む家も出て、流域の人々は長い間水場の被害に苦しみました。
 先人たちの苦労・悲しみを忘れず、これからも地域の人々が仲良く暮らせることを願います。
平成28年4月吉日 82歳 庭田隆次 建

関宿の さまたげなくば 浪静 むかし思ば 川水ひくし (田中正造)

 田中正造翁は運動の途中倒れ、大正2年(1913)9月4日栃木県佐野市下羽田(旧足利郡吾妻村)の庭田清四郎家で満71歳の生涯を閉じた。翁は、近代日本の 「公害の原点・足尾銅山鉱毒事件」 で苦しんだ被害民の救済・人権回復に半生を捧げた。
 明治政府は、被害地人民の生命と生活をかえりみず、最後は谷中村を廃村にし、残留した被害民の家屋まで強制破壊した。
 翁は、「亡国日本」を救う運動の中で培った 「人権、自治、環境・自然との共生、憲法政治の確立、平和・軍備全廃」 思想を100年前に主張している。翁こそ、環境人権破壊に抗する人々の味方として永遠に記憶に留められる人物である。
 庭田家ではその後、現当主隆次氏まで4代にわたって、田中翁が病臥し死去した部屋をそのまま保存し訪れる人々に翁の思想と行動を伝え続けている。
 庭田家の近くの雲龍寺(群馬県館林市下早川田)は鉱毒被害民運動の拠点だった。当時の住職黒崎禅翁師も被害民と共に闘い川俣事件で逮捕された。
 雲龍寺には翁の分骨地墓と 「救現堂」 「足尾鉱毒事件被告之碑」 がある。
 庭田邸と雲龍寺は 「田中正造翁終焉の地」として、100年の悔いを子孫に伝うるなかれ」 という翁の戒めを私たちに常に発信し続けている歴史的精神的遺産である。

男女双体道祖神

田中正造翁終焉の地碑