佐野は古くは天命(天明)と呼ばれ、平安朝の昔より鋳物業が殷賑を極めていた。製品は鳥居・燈籠(釣灯籠)・銅祠・仏像・梵鐘・鰐口・茶の湯釜などが著名で、国の重要美術品に指定されたものも少なくない。中でも湯釜は室町時代、東の天命、西の芦屋と喧伝され、数多くの名品を世に送り出した。正に天命鑄物は、佐野市が全国に誇り得る美術工芸品である。
 鋳物を業とする人々、つまり鑄物師(いもじ)の崇敬高い神が、通称カナガミ様と言われる 「金山神社」 である。ご祭神は金山彦命(かなやまひこのみこと)・金山姫命(かなやまひめのみこと)の2神で、治安2年(1022)に祀られたと伝える。しかし、鑄物師達が金井上町・金屋仲町・金吹町などに定住したのは、唐澤山城主佐野信吉が城山公園に築城(春日岡城)の工を起こした慶長5年(1600)以降であるので、現在地ではない。
 伝承によると天命の鑄物師達は、はじめ旗川の東岸寺岡村に居住し、治安3年(1023)に犬伏宿鑄物入(どじのいり)に移り、「安三」 と銘打った茶釜を製造したという。更に大治元年(1126)、城山公園の西北に位置する是閑・田町・堀米・朱雀に居住した。してみると金山神社は、犬伏宿に創祀されたことになる。
 慶長5年後、鑄物師達は町割の済んだ所定の場所に居を構えた。時を同じくして金山大明神を現在地に祀ったことだろう。寛保2年(1742)、社殿を再築、次いで享和2年(1802)、江戸神田紺屋町2丁目の宮大工・田中伊兵衛が棟梁となり改築された。文化3年(1806)作成の 「中山道例幣使道分間延絵図」 には、鮮やかな朱の鳥居とともに、落成して間もない神社が描かれている。鑄物師達は改築を祝い、社前で燈籠2基・火鉢3個・平釜1個などを鑄吹き奉納した。なお社守いわゆる別当は、春日岡山惣宗寺の院主が代々勤めていた。
 日光・輪王寺には天保3年(1832)4月、天命鑄物師によって鋳造された梵鐘が、今なお時を告げている。かつて、この梵鐘の木型が拝殿に奉納されていた(佐野市郷土博物館に展示)。木型には前年の天保2年6月25日に、梵鐘鋳造に立ち会った作事奉行や日光奉行など7名が墨書されている。ほかに 「大楽院様」 と筆太にあるのは依頼主であろう。鑄物師は、大川四郎次を始めとする大川・正田・小島・三木ら18名であった。
 明治5年(1972)、神社は無格社に列せられ金井上町の鎮守となった。例大祭は9月15日のほか、元日を歳旦祭と称して氏子のほか鋳物業に携わる人々がお詣りし、家内安全・商売繁盛などを祈願する。なお平成17年の秋祭りには、佐野鑄物工業組合の方たちにより 「金鈴」 が奉納された。

 佐野市は、その起源を天慶2年(939)とする鋳物の産地で、この地で造られた鋳物は天命(明)鑄物と呼ばれ、その伝統が今日まで連綿と息づいています。
 当金山神社は、天命鑄物の最も栄えた江戸時代中期の寛保2年(1742)に創建され、「かねがみさま」 と呼ばれて、鑄物師や住民の厚い信仰を集めていました。
 ご祭神は、金山彦命、金山姫命の2柱で、総称して金山大明神、創建当時の社殿は天命鑄物繁栄を象徴する荘厳華麗なものだったことが、絵図(文化3年・1806)から想像されます。
 金山神社の歴史を物語る資料として、宝暦10年(1760)に書かれたという 「天明鑄物師由来書」 が納められていました。この古文書は、佐野の鑄物師達が金屋寺岡から金屋町に至る3度の住居変更を記述した貴重な文書です。又、天保3年(1832)に鋳造された日光輪王寺梵鐘(今も時を告げている)、その木型が拝殿額として奉納されていました。(現在、佐野市郷土博物館に展示)
 私のこよなく愛する天命鑄物、その繁栄の時代に建造され、栄枯盛衰と共に、今日に至った 「かねがみさま」 への信仰が、市民ならびに佐野を訪れる人達の心に、より深まることを願う次第です。
(天命鑄物師若林洋一))

鳥居に掛かる金山大明神の扁額

金山神社拝殿

金山神社鉄鳥居

金井上町鎮守 金山神社由来記(抄)

金山神社改築記念芳名碑

かねがみさまと天命鑄物説明

彫刻が施された拝殿扉

全面に彫刻が施された金山神社本殿

拝殿に掛かる金山大明神の扁額