当寺は、第43代元明天皇、和銅元年(708)行基菩薩によって開創された。第82代後鳥羽天皇、建久4年(1193)3月、頓阿見性法師、行基菩薩の旧跡を偲び草庵を修建して終南山の鍾馗に擬え鎮守とし、浄行専修し、久しく住した。第91代後宇多天皇、建治2年(1276)10月、白幡流の祖・寂恵良暁上人により再興され、今日の基となる大伽藍となり一向専修の道場として、茲に初めて 「終南山見性院善導寺」 と呼称し、以後浄土宗に属する寺院となった。良暁上人以前は、単に 「行基寺」 とか 「見性院」 と呼ばれて来たという。以来、300余年間、代々の領主(由良氏、長尾氏、赤井氏、北条氏等)当寺を令法久住の檀林として特に庇護し、山門に勅札を掲げ軍兵等の狼藉を禁じたが、元亀・天正の頃、下剋上による動乱東西に広がるや、当寺も荒れるに任されるに至った。
 後陽成天皇、天正18年(1590)徳川家康公四天王の一人、榊原康政候館林10万石に赴任するや、広範囲に亘る塔域開発に着手した。時同じ頃、学徳兼備の高僧、幡随意上人は予てより行基菩薩、白旗流流祖建幢の再興を念願としていたが、康政候篤く上人に帰依し、当寺域を谷越の地に移し本堂を初め七堂伽藍並びに付属堂宇を整備し、上人を中興第一世と定め榊原家の菩提寺とし100石を付与された。
 後水尾天皇、元和元年(1615)家康公は、旧姓松平の 「松」 に18公の嘉誉あるに因んで関東に18の檀林選定に当たりその一つに加えられ、これを機に当寺の院号 「見性院」 を現在の 「見松院」 に改められた。後光明天皇、正保元年(1644)榊原家3代忠次候館林在域28年、奥州白河への移封の折徳川三代将軍家光公より供田100石と諸役免除のご朱印を賜り、以来、各将軍時々の城主当寺を遇すること厚く、以後200余年間、歴代住職法灯護持に尽力し檀林としての責務を果たし教化当地に善く及ぶに至った。然しながら幕末の動乱・幕藩体制の崩壊・廃仏毀釈等によりその影響大なるものがあり、次第に衰退することとなった。明治維新を迎え漸く体制も整い、近代国家への脱皮と共に社会秩序も平穏となり、大正・昭和時代へと変遷したが、この間当寺は常に地域社会の変貌と共に歩み続けて来た。(境内案内より)

観音堂に掛かる観世音の扁額

観音堂

昭和63年(1988)再建

弘法大師堂

 榊原康政は、天文17年(1548)、三河国上野(現在の愛知県豊田市)に生まれ、幼名を亀、のちに小平太と名乗り、12歳の時徳川家康の家臣となりました。
 初陣は、永禄6年(1563)上野の合戦で、この時手柄をたて、家康から一字賜って康政と名乗り、以後、姉川・三方ヶ原・長篠・小牧・長久手などの合戦を歴戦し、徳川幕府創立の功臣として、後に井伊直政・本多忠勝・酒井忠次とともに、徳川四天王の一人に数えられています。
 天正18年(1590)家康の関東入国に際し、10万石を領し館林城主となりました。
 館林での業績は、城の拡張、城下町の整備、利根川・渡良瀬川の築堤をはじめ日光脇往還を新設するなど、土木事業において顕著で、郷土舘林の礎を築きました。
 ここにある墓は、初代康政をはじめ、榊原家関係者5基の墓石が並び墓所を構成しています。
 群馬県(上野国)特に館林藩成立前後の歴史や、大名墓の研究、大名と寺との結びつきなどを知る上で大変重要なものとして、昭和28年群馬県の史跡に指定されました。

榊原康政の墓説明プレート

大須賀忠政
生年天正9年(1581)、没年慶長12年(1607)、墓は高さ2.72mの五輪塔、法名華馨院殿泰誉叟安大居士。
康政の長子で遠江国横須賀城主。

榊原康勝の墓
生年天正18年(1590)、没年元和元年(1615)、墓の高さ2.73の五輪塔、法名心光院殿長誉了英大禅定門。
榊原家二代を継ぐ。

花房氏の墓
生年不詳、没年承応2年(1635)、墓の高さ4.37mの宝篋印塔、法名周光院殿葉誉青荷大姉。
康政の側室、二代康勝の生母。
生年天文17年(1548)、没年慶長11年(1606)、墓の高さ5.46mの宝篋印塔、法名養林院殿上誉見向大禅定門、官位は従五位下式部大輔。

生年不詳、没年慶長11年(1606)、墓の高さ1.93mの宝篋印塔、法名腹巻道切禅定門。
康政の側近で殉死。

大須賀忠政・榊原康勝・花房氏の墓

六地蔵尊

無縁塔

歴代住職の墓(卵塔)

榊原康政の墓

南直道の墓

手水舎

薬師堂

文政12年(1829)建立

鐘楼

安らぎの鐘

弁天池

弁天堂に掛かる開運殿の扁額

弁天堂

文政4年(1821)再建

勅願所碑

善導寺本堂

本堂に掛かる見松院の扁額

山門に掛かる終南山の扁額

不動堂

文化4年(1807)再建

勢至堂

昭和63年(1988)建立

石燈籠

善導寺山門

山門へ続く参道