佐野城は、別名「春日岡城」とも言われ、その地名は、延暦元年(782)藤原藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられています。慶長7年(1602)、唐沢山城主佐野信吉は、当時この地にあった惣宗寺(佐野厄除大師)を移転させるとともに、築城と町割を開始しました。
 今日見られる佐野の街は、当時の佐野城を中心とした町づくりがその原形となっています。佐野氏は、慶長12年(1607)唐沢山城を廃してこの地に移ったとされ、同19年(1614)所領を没収されて改易となり、築城間もなく廃城となってしまいました。
 城は、南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と直線的に築かれています。これら縄張の主郭部は、全体で110m・南北390mの規模を有し、それぞれの間は空堀で区切られ、内堀へと続いていました。現在、内堀から外堀の範囲は市街化が進み、完全に埋め立てられていますが、主郭部は当時の城割の姿を良好に留めており、貴重な歴史文化として後世に伝えるべく史跡・名勝(城山公園)に指定されています。

 平成4年度の発掘調査で、佐野城本丸から石畳の通路と石垣が発見された。 石畳は、東西2.6m、南北5.6mほどの範囲で確認され、東部には水路と思われる幅20㎝、深さ20㎝の溝がある。 石垣は、最も良く残っている部分で、長さ6.4m、高さ1.4mで、いずれも細長い角礫を使用している。
 この東斜面には井戸跡もあり、石畳と石垣は、ここへの通路の一部であった可能性が高い。
 出土した石畳と石垣は、形状を損なう恐れがあり、保存のyために埋め戻しを行っている。
 現在、埋め戻した石垣と通路に沿って、この付近から出土した石を並べている。
(佐野市教育委員会)

 この場所は、「北出丸」 あるいは 「鐘の丸」 といわれ、本丸の北側を守る場所である。江戸時代の記録には、東西約36m、南北約54m、本丸との間の堀幅約14mと記されているが、建造物等の詳細については不明であった。
 平成元年に一部発掘調査が行われ、テラスが建設された場所には岩盤を繰り抜いた柱穴と思われる遺構が発見され、多量の瓦も出土し、「隅やぐら」(見張台)の跡とも考えられる。また、西側の階段周辺には、「搦手(からめて)」(城の裏口)があったと考えられ、防御の点からも複雑な地形を構成しており、重要な場所であったことが確認された。
(佐野市)

佐野城本丸の石畳みと石垣説明

二の丸と本丸の間の空堀

佐野市戦没者霊苑

史跡佐野城址碑

佐野城跡案内