椿田城跡
 永禄3年(1560)唐沢山城の出城として構築され、川越、忍、館林方面に対する抑えとして、代々福地氏が城主となっていた。慶長19年(1614)佐野氏改易とともに廃城となり、以後福地氏が名主・郷士として住んできた。やや方形の宅地の外側に幅2.6~2.8m、深さ約1mの水路が残っている。

銅造鰐口
 椿田の福地家屋敷内の観音堂にあり、天明6年(1787)天明の鑄工丸山善太郎の作である。この鰐口は一旗の守護のために各地の代表者が寄進したもので、特に撞座の部分は素晴らしい。

下野絵図
 天正18年(1590)秀吉の臣加藤清正からの要請を受けて、天徳寺了伯が佐野家の重臣山下道牛、福地出羽、高山外記、田口豊後、浅野弥十郎の5名に命じて提出させた下野国絵図の手控である。筆跡や用紙から安土桃山期のものと推定される貴重な資料である。

(佐野市教育委員会)

 赤松福地家代々の守護神として伝わる十一面観音は、一寸六分(約5.3㎝)の黄金造りのもので、遠祖具平親王(人皇第62代村上天皇第7皇子)より季房(赤松氏祖)則景、能久(福知山城主、福地家祖)と受け継がれた。何時の頃よりか、ご本尊を兜の前立に納め、数多の合戦に出陣した。第7代丹波守直久は、西国の乱(応永4年5月18日)に際し、備中戸岩の城攻めの時、敵兵の放った矢を兜に受けたけれど、矢の根が折れて裏まで貫通せず無事であった。
 また、第20代出羽守寧久(後昌寧と改む)は、天正11年正月朔日の未明、唐沢山城城主佐野宗綱公に従って彦間須花坂の合戦に望んだ時、敵兵の放った鉄砲の弾丸が兜に当たったが、弾丸は微塵に砕け散っただけで、少しの傷も受けなかったという。
 これも十一面観音の神霊のご加護によるものと語り伝えられている。因みに寧久の法名は霊性院殿一弾全無大居士になっている。このご本尊を厨子に納め、赤松福地一族の守護神として堂宇を応仁年間(1467-68)に、造立したのが、椿田十一面観音福地堂である。

冠木門

椿田城跡標柱

椿田城址碑

椿田城跡等説明

御堂に掛かる大慈殿の扁額

椿田十一面観音福地堂由緒

旧福地家住宅

庭門

椿田十一面観音福地堂