名称 宗教法人 宵稲荷神社(よいいなりじんじゃ)
別称 初引稲荷(はつひきいなり)、待辺の稲荷(しべのいなり)
祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、大海津見命(おおわたつみのみこと)、大物主神(おおものぬしのかみ)
御由来
当社縁起によると、宵稲荷と称するのは当町夜明け稲荷に対するもので、1532年頃、赤井山城守により勧請、榊原式部大輔により再建されたと伝えられる。
鎮座以降、商工業が盛んになり農耕神から殖産興業神・商業神・屋敷神とその御神格が拡大し、農村だけでなく、町家にも勧請され、稲荷神社の神使をキツネとする民間信仰とキツネの恩返しによる舘林城建築という宵稲荷伝説が、当地に古くより農耕・業業・商売繁盛の神様として崇拝され参拝する人々の姿が絶えない。
宵稲荷伝説
大袋城主赤井照光は、ある年の正月、親類の舞木城主俵秀賢(ひでかた)の所へ年始参りに行く途中、近藤林まで来たとき、大勢の子供が一匹の子キツネを捕らえているのを見て哀れに思い、家来の鉢形惣次郎に言いつけ子供らに金を与え、子キツネを林の中に放してやった。
その日の夕刻のこと、照光主従が再び近藤林まで来たとき、行く手に衣冠に身を正した気品高い老人がいた。照光が声をかけると、その老人はうやうやしく頭を下げ
「私は大袋山に住む稲荷新左衛門と申す老キツネでございます。今朝あなたに命を助けられたのは私の子供で、その恩返しをしたいと、先刻よりお待ち申していたのでございます」
と語った後、あなたの住んでいる大袋城はまことに不吉な城である。これに反して城沼の北岸にある舘林の 「菊間の長者」 屋敷跡こそ四神相応の地であるから、ぜひ舘林へお移りになり、ここに城を築かれれば、天下の名城となりましょう。縄張りは私が致しますと、言い終わると老人は、たちまち白キツネの姿を現して、どこともなく立ち走った。
その年の七夕の夜、照光が城内の広縁にいると、かの白キツネが姿を現し 「今宵こそ、またとない機会でございますので舘林へ御案内しましょう」 と照光の前に立って歩き出しました。いぶかしく思ったが、照光は相手の気勢に押されてあとに続き、現在の宵稲荷神社のあるあたりから、フサフサとした尾を地面につき城の地割をはじめたという。やがてキツネの教えによって館林城が完成すると、照光は尾曳・夜明二稲荷ともに、この地に稲荷祠を建てた。これが宵稲荷であるという。
宵稲荷は、キツネが初めて尾を引き出したということで、「初引稲荷」 また、この付近の地名をとって 「待辺の稲荷」 ともいわれる。江戸初期城主榊原康政は社殿を再建、またそれ以後の歴代城主は祭典料として毎年、蔵米7俵を奉納する例であった。
初引稲荷大明神の扁額が掛かる一の鳥居
二の鳥居
手水舎
宵稲荷神社(初引稲荷神社)本殿
御神燈
宵稲荷神社由緒
狛狐
拝殿に掛かる初引稲荷大明神の扁額
狛狐
宵稲荷神社(初引稲荷神社)拝殿