徳川斉昭の和歌
 市指定第21号文化財「富士の図」をみてみて詠んだ和歌です。徳川斉昭―寛政12年(1800)~万延元年(1860)―は水戸藩の第9代当主で、藤田東湖らを登用して藩政改革を行い、将軍は賞賛しましたが、幕府からは急激な改革を嫌われ、謹慎を命ぜられました。その後、情勢の変化により幕政に参与しましたが、将軍の後継ぎの問題で実子の慶喜(のちに15代将軍となる)を推し、井伊直弼らと対立し、安政の大獄で処刑されました。尊王攘夷派を主導し、桜田門外の変の原因をつくなど、歴史に大きな足跡を残した人物です。
佐藤延昌の箱書
 徳川家康の忌日に日光東照宮で行われる4月大祭に、2代将軍秀忠から12代将軍家慶まで将軍自らが計19回も日光に社参しました。最後は天保14年(1843)のもので、総勢14万人にも及びました。このとき、徳川御三家も日光脇往還を通行し日光に参詣しました。徳川斉昭の一行はこの本陣に往きは4月11日に立寄り、そこで上記の和歌を詠みました。本陣は、その和歌を入れる箱を作り、4月22日の帰路で再び休憩した際に、従者の佐藤延昌にその由来を書かせたものです。
黒沢翁満(おきなまろ)の書
 黒沢翁満―寛政7年(1795)~安政6年(1859)―は、伊勢桑名に生まれ、桑名藩士に仕え、文政6年(1823)の藩主松平忠尭(ただたか)の領地替えに従い、忍藩に移りました。晩年は大坂留守居役となり、同地で没しました。賀茂真淵(かものまぶち)や本居宣長(もとおりのりなが)の学風を学び、国学を研究し種々の書物を著しました。この書は、徳川斉昭の和歌をみて、その素晴らしさに感激して記したものです。
富士山の図
 地袋に描かれたふすま絵です。詞書(ことばがき)に、天保14年4月8日とあることから、徳川斉昭の寄宿の直前に描かれたもので、これを見た斉昭の心を動かし、和歌を詠ませました。縦20㎝、横40㎝の大きさです。描いたのは晴真です。

(羽生市教育委員会)

上新郷シイノキ説明

推定樹齢400年のシイノキ

須永家所蔵文化財説明

 前の道は日光へ参詣するための街道であり、日光脇往還と呼ばれています。また、日光山の火防の任に当たった八王子千人同心が通行した道でもあるため、八王子千人同心道とも呼ばれています。
 当地は新郷宿であり、継立は舘林から行田へ向かう時のみの片宿場でした。これは、脇街道にみられたものです。
 当家は忍藩主の命により本陣を務めていました。このシイノキは推定で400年の樹齢を持ち、高さおおよそ18m、根回りは7.15mです。
(羽生市教育委員会)

須永家本陣門

従是西忍領

街道に背を向けた傍示杭