天洲寺の木造聖徳太子立像は、用明天皇の病気平癒を願う太子16歳の姿を写した孝養像で、髪をみずらに結い、彩色からなり、胎内の墨書銘から、寛元5年(1247)関東評定衆毛利四郎季光(法名西阿弥陀仏)の発願により、大仏師法橋慶禅が鎌倉の地において造像したことがわかっています。季光は、鎌倉幕府確立に功績のあった大江広元の4男で、この像の作成目的は、仁治3年(1243)に没した執権北条泰時の往生極楽を願うことにありました。
制作年代のわかるものでは最も古く、作は雄渾無比の鎌倉初期の様式が明確に表れています。運慶様の作風が忍ばれると共に、宋風も表れた優れた孝養像です。
聖徳太子の命日にあたる2月22日に、毎年例大祭が行われ、この日には太子像を拝見することが出来ます。
(行田市教育委員会)
天洲寺は、曹洞宗の寺で聖徳山天洲寺と称し、開基は慶長12年(1607)荒木長善の遺子八左衛門で、開山は清善寺5世天洲全尭和尚と伝えられている。
荒木長善の先祖は、北条氏の先祖伊勢新九郎長氏と共に関東に下った7人の中の一人といわれ、子孫代々荒木に居住して、荒木越前と称し、忍城主成田氏に属した。
境内には太子堂があり、堂内には国指定重用文化財である木造聖徳太子立像が安置してある。像高141㎝、檜材寄木造りの孝養像で、胎内及び頭部に墨書による銘文が残されている。
それによれば沙弥西阿弥陀仏が願主となり、二親幷舎兄等の往生極楽を祈って慶尊が導師格となり、大仏師慶禅が鎌倉で寛元5年(1247)に造ったことが記されている。
銘文中の願主西阿弥陀仏とは、鎌倉幕府の関東評定衆の大江氏毛利四郎季光の法号で、大江広元の4男であり、二親幷舎兄とあるのは、父母と兄二人と考えられている。
木造聖徳太子立像説明
天洲寺由緒
東屋
四体の鬼の背に乗った香炉
4面に四天王(多聞天・増長天・広目天・持国天)が刻まれている
種子板碑
水子地蔵尊
拈華翁之碑
国宝聖徳太子碑
太子堂
太子堂の扁額が掛かる太子堂内陣
浄行菩薩が置かれた手水舎
天洲寺本堂
本堂に掛かる聖徳山の扁額
天洲寺山門
増長天?
持国天?
広目天?
多聞天?
句碑
初花の光りに開く秘仏の扉