長久寺は、新義真言宗の寺で應珠山擁護院長久寺と称し、本尊は胎蔵界大日如来である。
 創立は文明年間(1469-87)で、開基は成田氏14代下総守顕泰(あきやす)、開山は僧通傳(つうでん)である。顕泰は忍城を築くにあたって、鬼門鎮護の道場を建立して、武運長久を祈り、寺名も長久としたという。長久寺の古記録に応永年間(1394-1427)成田五郎家時建立とあり大檀那顕泰となっている。この古記録は宝暦12年(1762)9月に記されたものである。これから察すると、成田家中興の英主であった祖父の家時に開基の功徳を譲って、顕泰は大檀那となったと思われる。
 長久寺の本堂は、天正18年(1590)石田三成忍城水攻めの時、兵火によって焼けたのを始めとして、再建、焼失を繰り返し、現在の堂宇は弘化5年(1848)に建立したもので、明治28年に瓦葺に改めた。
 なお、本寺には市指定絵画の「絹本着色両界曼荼羅・紙本着色十二天画像」、市指定書籍の「大般若経」、市指定の天然記念物の「菩提樹・公孫樹」等がある。

 この山門は、長久寺の境内南側に位置し、東面を正面としています。本瓦葺、切妻造りの四脚門で、本柱桁行寸法3.38m、側柱梁間寸法2.53m、両側に昭和60年に改修された脇塀が付属しています。山門の建立年代を記す棟札などは発見されていませんが、桃山時代の特色を引継ぐ建物装飾が見られることや古文書等の記録などから、江戸時代初期の建造と推測されます。
 長久寺は、天正18年(1590)の石田三成らの軍勢による忍城攻めの際に兵火を受けていて、この山門はその復興の際に建てられた可能性も考えられています。山門の正面には後付けと思われますが、本山智積院第7世能化であった運敞筆の扁額が掲げられています。運敞は延宝4年(1676)に長久寺に立ち寄っていることから、その折にこの扁額を書かfれたものと思われます。この山門は、江戸時代初期の北関東における寺院建築を知る上で貴重な建造物であり、一体となっている扁額からも長久寺の格式と本山との関係が窺える歴史資料であると言えます。
(行田市教育委員会)

長久寺山門由緒

長久寺由緒

無縁塔

長久寺参道

山門に掛かる應珠山の扁額

長久寺山門

聖観世音菩薩立像

宝暦9年(1759)の地蔵菩薩立像

十三重塔

推定樹齢300年超の公孫樹の雄木

明和5年(1768)の二十二夜塔如意輪観音

手水舎

鐘楼

聖観世音菩薩立像

六地蔵尊

本堂に掛かる長久寺の扁額

長久寺本堂