生田萬は、享和元年(1801)松平(越智)藩士として舘林に生まれた。
20歳頃から国学の道に進み、24歳の時に平田篤胤(あつたね)の門下となる。舘林藩士であった萬は文政11年(1828)に藩政改革に関わる意見書を提出して藩を追われ、天保7年(1836)に越後国柏崎に移った。
翌8年 「天保大飢饉」 に困窮した領民を救おうと乱を起こしたが失敗し自刃した。
ここは、代々松平氏に仕えた生田家の墓所で、舘林生まれの国学者・生田萬の曽祖父正宴とその妻、祖父正秘と祖の妻、父信勝、実母、信勝の次女の5基の墓石が並んでいる。
墓石にはそれぞれ 「義峰院生田君想厳院鈴木氏之墓」、「善立院生田君普明院黒沢氏之墓」、「生田寿叟之墓」、「春迎院誓誉接引大姉」、「爽容童女」
と刻まれている。
舘林藩士であった、国学者・生田萬に関わる市内に残る数少ない遺跡である。
(舘林市教育委員会)
大道寺は、田山花袋の算術の師「戸泉鋼作」ゆかりの寺である。戸泉鋼作(1836-1909)は舘林藩士 「戸泉善治」 の子として生まれ、明治13年頃から青少年を対象に和算(算術・珠算等)を教えていたと伝えられる。
田山花袋は明治16年(11歳)頃から、進藤長作らとともに、登校前に戸泉鋼作の和算塾(現大手町10番25号付近にあった)で算術を学び、授業終了後に
「吉田随軒」(1809-86)の 「休久草堂」 で漢詩や漢文を学んだという。
鋼作の墓は、本堂東側、生田萬父祖の墓の左奥にある。
(舘林市教育委員会)
明治30年(1897)の石燈籠
自然石の馬頭観世音碑
地蔵菩薩立像
山門に掛かる大道寺の扁額
大道寺山門
山門前の地蔵菩薩立像
山門前の一面六臂の青面金剛の庚申塔2基
大道寺本堂
本堂に掛かる白峰山の扁額
戸泉鋼作ゆかりの寺説明
国学者生田萬父祖の墓標柱
周囲に5基の墓石が建っている
生田萬父祖の墓説明
自然石の南無阿弥陀仏名号碑
白衣観世音菩薩碑