子規句碑
此巨犬 幾人雪に 救ひけむ
長野口は、忍城の城下町行田の東北隅に位置し、長野口御門が設けられて、忍城の北東の守りの拠点になっていました。
戦国時代の天正18年(1590)に石田三成らの軍勢が忍城を攻めた際に、ここで激しい攻防戦が行われたことが「成田記」、「忍城戦記」、「関八州古戦録」
などに記されていますが、これらが記されたのは、合戦から100年以上も後で、その内容をそのまま史実であると考えることはできません。
その当時、長野口のある下町は愛宕神社の門前町として市が立ち、忍城開城後には遠く京都の宮津からも商人が訪れていました。忍川には船着き場が設けられ、城下町行田の玄関口として人の行き来が盛んであったようです。
江戸時代の享保13年(1728)に見沼代用水が開削されると、やがて船運が盛んになり、長野口は船着き場として繁栄して行きます。そして幕末には、長野口御門に番所や高札場が設けられるほどの賑わいを見せるようになりました。
しかしながら明治維新後に長野口御門は取り壊され、船運も鉄道の発達とともに衰退して、かつての賑わいは失われてしまいました。
(行田市教育委員会)
下町が忍城に対して下町で星川の船着き場として栄えた事が400年前の記録に既にある。幕末には番所が出来、、高札場まで出来る賑わいで、江戸から水路があり、明治19年舘林に行啓の折の御荷物がここで荷上げされた記録もある。(碑裏面)
行田町の北東の固めとしての長野口御門は船着き場としての繁栄と共に重要さを増し、高札場、番所も出来、人の出入に賑わった。御門の北は小沼堂と、もう一つの島で、一帯は大きな沼であり、菖蒲の名所であった。(碑裏面)
長野口御門跡碑
船着き場跡碑
長野口説明