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日光脇往還   (東松山~行田


令和4年5月18日(水)   ☀|☁    東松山~行田    16.0㎞
本日は、ここ松山宿から荒川を渡り、中山道の間の宿としても栄えた吹上宿を通り、その先の忍城の城下町として栄えた忍宿までの行程である。忍城は関東七名城の一つに数えられ、豊臣秀吉の関東平定の際には、石田三成の水攻めにも耐えた 「浮き城」 として知られ、映画 「のぼうの城」 のモデルとなった。

馬頭観音 見世蔵 道路元標 島田医院
東松山駅東口から東へ真直ぐ400m程進むと、前回歩いた下沼公園前に出る。公園脇に建つ馬頭観音前から街道歩きをスタートする。ちなみに此処には左から文久元年(1861)の小さな馬頭観音、中央に慶応元年(1865)の馬頭観音、右に元文5年(1740)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。 下沼公園から本町一丁目に入ると立派な見世蔵の旧家が建っている。 先に進むと本町一丁目交差点の右角に本町広場があり、この一角に松山町道路元標が建っている。大正8年の道路法施行令の 「各市町村ニ1箇ヲ置ク」 の規定により設置されたものである。松山市域に現在残っているのは、ここ松山町道路元標と野本村道路元標の2つだけである。 本町広場の斜向かいには島田医院がある。この建物は大正初期に建てられたもので、元は市内唯一の郵便局であったという。木造二階建てのレトロな雰囲気がとても良い。

旧家 八雲神社 松山神社 曹源寺
島田医院の隣にも立派な旧家がある。煉瓦の蔵が印象的で、黒壁に格子窓の建物である。調べてみると、江野家といい、江戸末期には絵師江野楳雪(ばいせつ)も系図に登場する名家である。 先に進むと左手段上に八雲神社がある。八雲神社の創建年代等は不詳であるが、松山宿の天王社として祀られ、明治期以降八雲神社に改称したという。ご祭神は倉稲魂命で、松山神社の境外社となっている。社殿は全面に彫刻が施され、松山市指定文化財に指定されている。 八雲神社の鳥居前から西に150m程入ると、突き当りに松山神社がある。松山神社の創建年代等は不詳であるが、康平6年(1063)に大宮氷川神社を勧請して氷川社と称していたという。その後、寛永元年(1624)に熊野神社を合祀し、松山宿の総鎮守として崇敬されてきたと伝わっている。境内には、大鳥神社・浅間神社の境内社のほか、顕彰碑や伊都能売魂社(いづのめこんしゃ)と刻まれた球体の石がある。 街道に戻ると八雲神社の街道を挟んだ斜向かいに曹洞宗の清凉山曹源寺がある。曹源寺は、寛永2年(1625)の創建と伝えられ、ご本尊は延命地蔵菩薩像で、本堂には絵師・江野楳雪(ばいせつ)によって描かれた 「十界図・釈迦涅槃図」 がある。境内には、文化5年(1808)の南無阿弥陀仏名号碑、水子地蔵尊、布袋尊像、仏足石などがある。

上沼公園 日枝神社 松山神社石祠 簗瀬橋
街道に戻ると左手は上沼公園であり、中央の池の周りに桜などの木々が植栽され、散策できる遊歩道が整備されている。また池の中央に突き出すように東屋が設けられている。桜の季節には、この公園から下沼公園を結ぶ約1㎞の道に灯籠が飾られ、「東松山夢灯路」 が出来るという。 上沼公園の北側に日枝神社がある。日枝神社は、江戸時代の文化15年(1818)、近江国日吉山に鎮座する地主神・安産子育て・家内安全・学業成就の守護神日吉山王大権現を当地に勧請し、社殿を建立した。日吉町の地名はここに由来するという。境内には、延享4年(1747)の弁才天石祠、明治43年(1910)の寄附芳名碑がある。 街道(県道66号)に戻り、上沼公園交差点から280m程進むと右手に加美町公会堂があり、この庭先に松山神社を祀った石祠が建っている。 先に進むと程なく市野川に架かる簗瀬橋がある。市野川は埼玉県大里郡寄居町に源を発し、下流で荒川に合流する延長38㎞の一級河川である。

地蔵菩薩坐像 白坂陸橋 松平橋 覚性寺
市野川を渡り緩やかな坂道を進むと、市民病院前交差点を過ぎた辺りの右手に地蔵菩薩坐像が建っている。この地蔵菩薩坐像は、宝暦2年(1752)に建てられた道標を兼ねたものであり、台座に 「行田海道・熊谷海道」 と刻まれている。地蔵菩薩坐像の手前の沼は地蔵沼というが、異臭や周辺宅地への洗堀等の改善のため埋立られるという。 地蔵菩薩坐像の直ぐ先で白坂陸橋を潜っていく。この辺りが坂道の頂上にあたり、この先は切通の下り坂の道となる。切通を抜けると一気に開けた平地となる。 緩やかな坂道を下ると滑川に架かる松平橋がある。滑河は、埼玉県嵐山町にある三反田沼に源を発し、下流で市野川に合流する延長13㎞の一級河川である。 松平橋を渡って280m程進んだところのY字路左手に真言宗智山派の妙雲山瑠璃光院覚性寺がある。覚性寺は、東国の地に反乱を起こした平将門を追討するために下向した藤原秀郷が、天慶3年(940)夢のお告げにより熊野神社を勧請し、薬師如来像を本尊として創建した伝えらえている。境内には天満宮があり、街道に面し薬師堂が建ち、傍らに地蔵菩薩などの石造物が並んでいる。

角川に架かる橋 馬頭観音 旧道口 熊野神社
覚性寺の直ぐ先で角川に架かる橋を渡っていく。角川は、埼玉県東松山市大谷地区のため池に源を発し、農業排水を集めて下流で滑川に合流する延長3.7㎞の一級河川である。 角川を渡ると右手に武州比企郡と刻まれた文政10年(1827)の馬頭観世音碑が建っている。傍らには、道標を兼ねた安永9年(1780)の地蔵菩薩立像が建っている。 馬頭観世音碑の先の東平交差点で右(東)にほぼ直角に折れて国道407号を渡っていく。東平交差点から200m程先の加藤農園の脇から左に入る旧道がある。この旧道は、300m程先で再び県道66号に合流する。 旧道を進むと正面の段上に熊野神社がある。熊野神社は、覚性寺の由緒碑にもあったが、平将門を追討するために下向した藤原秀郷が夢のお告げにより当社を勧請したのが始まりと伝えられている。境内には諏訪社石祠のほか、文政11年(1828)の石橋供養塔、享保18年(1733)の奉納御寶前碑などがある。

馬頭観音 馬頭観音 旧道口 地蔵堂
県道66号に合流に合流して600m程進むと、左手の株式会社HPの近くに馬頭観音が2基建っている。左の馬頭観世音碑は文化11年(1814)のもので、右の三面六臂の馬頭観音は宝暦6年(1756)と刻まれているようである。この付近は緩やかな上り坂が続き、閉店している美容室の辺りから緩やかに下って行く。 下り始めて程なく左手の筋角に建つ覆屋に、明治元年(1868)の馬頭観世音碑が安置されている。この辺りから県道66号の右手は熊谷市である。 馬頭観音から60~70m先で県道66号と分かれて右に入る旧道口がある。 旧道に入って間もなく左手に地蔵堂があり、地蔵菩薩立像と安永9年(1780)の如意輪観音像が安置されている。如意輪観音像は、子供を抱いており、台石に二十二夜供養と刻まれていることから、女人講による造立と思われる。

道路開鑿之碑 春日神社 宝篋印塔・馬頭観音 下り坂の道
地蔵堂から450~60m程進むと左手に昭和7年(1932)の道路開鑿(かいさく)之碑が建っている。 道路開鑿之碑の前を左折すると、左手段上に春日神社がある。春日神社の創建年代等は不詳であるが、ここ小八林(こやつばやし)村の鎮守であったと言われている。拝殿は丘上にあり、八坂神社・白山神社・三島神社などの境内社のほか、数基の石j祠・常夜燈などがある。 街道に戻って160~70m程進むと左手に、宝篋印塔と供養が2基建っている。この裏側に大正12年(1923)の大明神坂開鑿(かいさく)碑があり、その傍らに天保6年(1836)の馬頭観世音碑と安永9年(1780)の三面六臂の馬頭観音が建っている。 馬頭観音の先は下りの長閑な街道が真っすぐ北東に延びている。街道の両側には、一面の水田が広がって吹く風も気持ちがいい。

道標 長閑な道 馬頭尊碑 土地改良之碑
馬頭観音の先の下りの道を200m程進んだ右手筋に表面が削られた石碑が建っている。正面は供養塔であろうか。右面には、「南よしみくわんおん道」 と刻まれているようで、ここから2.5㎞程南にある真言宗智山派の岩殿山安楽寺(吉見観音)を示している。左面ははっきりせず 「北行田道」 であろうか。 道標の先もまばらな民家と田畑の中の長閑な道が続いている。 道標から300m程進むと、左手に明治30年(1897)の小さな馬頭尊碑が建っている。 馬頭尊碑の直ぐ先の信号交差点の右手に土地改良之碑が建っている。逆光で碑面に刻まれた文字は判読できない。

馬頭観世音碑 地蔵尊 地蔵尊 長島記念館
信号交差点から100m程先の電柱の前に、大正12年(1923)の小さな馬頭観世音碑が建っている。 馬頭観世音碑の直ぐ先左手に、ブロック塀で囲われた地蔵菩薩立像が建っている。この地蔵菩薩は享和2年(1802)のもので、台石に 「享和二壬戌二月吉日、供養塔為先祖親兄弟為一家親類」 と刻まれている。 地蔵尊の直ぐ先の民家の脇に、これまたコンクリート塀に囲まれた地蔵尊が建っている。この地蔵尊は、享保8年(1723)のもので、台座に 「享保八癸卯二月吉日同行十二人」 と刻まれている。 直ぐ先の左手に長島記念館が建っている。長島記念館は、埼玉県の経済界で多くの業績を残した故長島恭助の生家を利用して平成6年に開設されて記念館である。長島恭助は、明治34年(1901)この地に生まれ、大正12年(1923)に武州銀行に入り、以来69年間銀行一筋に生きてきた人物である。建物前のポピーは、今年で2年目を迎え、栽培面積は咋年より拡大して約1000㎡あるという。

旧道消滅 大芦橋 旧道口 䑓稲荷神社
長島記念館の先で荒川に堤防に突き当たり、街道は消滅している。かつては 「大芦の渡し」 で渡船により荒川を渡っていた。この先は、上流の大芦橋で対岸に渡っていく。堤防に上がると日本一長い荒川水管橋が対岸まで延びており、この直ぐ上流に和田吉野川に架かる吉見橋がある。この吉見橋を渡っても対岸には行けないが、この橋筋がかつての街道跡だったようである。 大蘆橋は、県道66号行田東松山線の橋で、荒川と和田吉野川を跨ぎ、全長は1016mあり、昭和54(1979)に竣工された。大芦橋が架橋される前は木造の冠水橋であった。大芦橋の歩道は上流側のみに設置され、幅は2m程ある。 大芦橋を渡り左岸の堤防を500m程下ると、荒川水管橋を潜った先の堤防左下に旧道口がある。旧道口には布袋尊像があり、吹上パークゴルフ場への道標が立っている。 街道を200m程進んで右手筋を入っていくと、䑓稲荷神社がある。䑓の漢字の読みは、「うてな」「だい」とあるが、何れで読むのか分からない。社殿の前には、文政11年(1828)の庚申塔、一目連大神碑などがある。

医王寺 地蔵菩薩・供養塔 日枝神社・道六神 龍光寺
街道に戻ると左手に青い屋根の医王寺がある。医王寺は、真言宗豊山派の寺院で、瑠璃山玉蔵院と号し、江戸時代前期頃に開山したと言われている。境内には役行者像、地蔵菩薩立像、如意輪観音像、宝篋印塔などの石造物のほか、本殿裏側に古山を築いて御嶽山座王大権現が祀られている。 街道に戻って北に進んでいくと、中島商店の自動販売機の向いに、地蔵菩薩立像と普門品供養塔が建っている。地蔵菩薩立像は、寛政8年(1976)のもので道標を兼ねているようである。普門品供養塔は、文化5年(1808)4月1日のものである。2基の後ろのブロック塀の奥は墓地になっている。 地蔵菩薩・供養塔の直ぐ先に日枝神社と道六神がある。向かって右手が道六神で、左が日枝神社である。傍らには安産子育山王社碑があり、その隣に文化11年(1814)の道標を兼ねた文字庚申塔がある。 日枝神社・道六神から住宅と田畑のあるうねった道を400m程進むと、左手に曹洞宗の大淵山龍光寺がある。龍光寺は、元和3年(1617)、当寺開基三要玄貫和尚がこの地に草庵を結んだのが始まりで、その後、寛永元年(1624)鴻巣市寶持寺より了山貫達禅師を勧請開山としたという。境内には観音堂があり、墓地前には首の無い六地蔵など石造物がたくさんある。

氷川神社 舟板塀 松山街道踏切 旧中山道
龍光寺から街道に戻って右にカーブすると、左手に氷川神社がある。氷川神社の創建年代等は不詳であるが、江戸時代には大芦村の鎮守であったという。明治6年(1873)に村社となり、同40年には近郷の雷電社・稲荷社など合計13社を合祀した。境内には2つの境内社があり、文化14年(1817)の石燈籠を始め、たくさんの石造物がある。 氷川神社から500m程先に進むと、左手に舟板で造られた塀を巡らす秋池家がある。秋池家は荒川の大芦河岸の元締めであったという。 舟板塀の秋池家から先に進むと、JR高崎線の松山街道踏切がある。踏切の右手には吹上駅が見えている。 松山街道踏切を渡ると180m程先で旧中山道に突き当たり、僅か50~60m程合流している。

吹上神社 東曜寺 いぼ地蔵尊 分岐
旧中山道に突き当たって左に80m程進むと、右手に吹上神社がある。吹上神社の創建年代等は不詳であるが、旧中山道と旧日光脇往還が交差する交通の要衝として栄えた吹上の鎮守として祀られていた。境内には、浅間大神・金毘羅大権現・庚申塔などの石造物がある。 旧中山道と旧日光脇往還との合流地点まで戻ると、左手に真言宗豊山派の瑠璃山東曜寺がある。東曜寺の創建年代等は不詳であるが、江戸時代初期の創建と言われている。本尊は阿弥陀如来であったが、明治9年の火災で本堂・薬師堂などともに焼失し、現在は焼残った薬師如来が本尊として祀られている。境内には六地蔵尊をはじめ、庚申塔などの石造物がある。 東曜寺を出ると次の左手筋角に 「いぼ地蔵尊入口」 碑が建っており、入っていくと直ぐ左手の覆屋に安置された地蔵菩薩立像がある。この地蔵尊は、別名を 「仲町のいぼ地蔵」 といい、宝暦年間(1751-63)に造立されたものである。覆屋の手前には、文政2年(1819)の馬頭観世音碑が建っている。 いぼ地蔵尊入口の次の左手筋から旧日光脇往還が分岐していく。

神社 新佐賀橋 三峰社・道祖神 寶蔵院
分岐の先で県道307号を横断すると、右手に簡素な鳥居が建つ神社がある。覆屋には瓶子が置かれた本殿があり、おそらく神明社と思われる。 神明社と思われる神社から150m程先で元荒川に架かる新佐賀橋を渡っていく。新佐賀橋は、元荒川の流路に対して橋軸が斜めに配された斜橋で、陸軍演習の視察に皇族が通ることから、豪華な外観に仕上げれたという。元荒川は、その名の通り元々は荒川の本流であったが、江戸時代の利根川から分離する付け替え工事によって残った河道である。 新佐賀橋の先を300m程進むと、国道17号に突き当ると、左手の鎌塚交差点の角に三峰社と道祖神の社が建っている。傍らには、塞神が建っている。 街道に戻って国道17号を横断し、その先で鎌塚交差点から延びる道に合流し、最初の右手筋を入ると、真言宗豊山派の愛宕山地蔵寺寶蔵院がある。寶蔵院は、本尊を延命地蔵菩薩とし、久安年間(1146-49)の創建と伝えられ、江戸時代には忍城の祈願所となっていたと伝わっている。境内には、如意輪観音像、聖観世音菩薩立像、宝篋印塔などの石造物がある。

本倉稲荷神社 がんがら大橋 前谷落 常夜燈
街道に戻って進むと、左手にたくさんの鳥居が並ぶ本倉稲荷神社がある。本倉稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、土地付近に郷蔵があったことから本倉稲荷と呼ばれたと言われている。境内には、近在から集められたと思われる稲荷社が並んでいる。 本倉稲荷神社の先に上越新幹線の高架が見えるが、その手前にがんがら大橋がある。がんがら大橋は、下を流れる 「がんがら落(おとし)」 に架かる橋である。がんがら落は、利根川水系の河川で、農業用水路として利用されていた。かつては雁柄落と表記していたといい、下流で前谷落(まえやおとし)に合流している。 上越新幹線の高架下を潜って、およそ1.2㎞程進むと国道17号の手前に 「前谷落(まえやおとし)」 が流れている。前谷落は、延長約4㎞の農業排水路であり、下流で元荒川に合流している。 前谷落を渡り、続いて国道17号を渡って300m程進むと、右手に民家の屋根を超えるほど高い常夜燈が建っている。常夜燈には、「新兵衛地蔵尊」 と刻まれている。新兵衛地蔵尊は、この先の水城公園の北側にある清善寺にある。

遍照院 大蔵寺 忍城通り 忍城
新兵衛地蔵尊常夜燈から程なく、右手筋に駒形薬師遍照院の看板が建っており、看板から130m程先に真言宗智山派の医王山常福寺遍照院がある。遍照院は、寛仁年間(1017-21)の草創といわれ、寺領25石の御朱印寺であった。七堂伽藍は兵火等により焼失したが、寛政5年(1793)に薬師堂(現本堂)が再建されている。境内は植栽が多く、山門、本堂も植栽に隠れるように建っている。 遍照院に隣接して臨済宗妙心寺派の鷲峰山大蔵寺がある。大蔵寺は、忍藩主松平家の祖松平忠明が、松平貞能の菩提を弔うため創建したと言われている。すっきりした境内には、文政11年(1828)の地蔵菩薩を刻んだ供養塔、明治17年(1884)の辞世を刻んだ供養塔が建っている。 街道に戻って進み、行田市コミュニティバス路線である南大通りに突き当たり、街道は右に進むが、真っすぐ北に向かっている道は忍城通りで約800m程先に忍城がある。 忍城は、文明年間(1469-87)にこの地を統一した成田氏によって築城されたと伝えられている。初代城主成田顕泰から4代にわたり成田氏の居城であった。天正18年(1590)豊臣秀吉が関東平定のため小田原に出陣し、秀吉方の石田三成が軍勢を引き連れ忍城を包囲し、全長28㎞におよぶ堤を築いて水攻めをしたが、なかなか沈まないため 「浮き城」 としてその名を轟かせた。

あおいの池 稲荷神社 行田窯 高源寺
街道に戻って進むと左手(北側)に水城公園があり、街道に近い所に 「あおいの池」 がある。この池は、一見何もない池だが、ホテイアオイの群生地で、9月から10月にかけて一面に紫色の花が咲き誇るという。 街道に戻ると直ぐ左手に佐間一丁目の稲荷神社がある。 稲荷神社の隣に板壁の2階建ての建物がある。この建物は、元は 「穂国足袋」 の商標で知らrた荒井八郎商店の足袋原料倉庫で、昭和初期に建設されたものといわれる。同商店の手を離れた後、この場所に曳家され、東半分が取り壊されたが、現存する数少ない木造の足袋蔵として貴重な存在である。現在は陶芸工房として再活用され、「行田窯」 となっている。(行田市教育委員会) 行田窯から200m程先で県道77号に突き当り、ここを左折すると、右手に臨済宗円覚寺派の天真山高源寺がある。高源寺は、忍城の水攻めの際、佐間口を守り抜いた正木丹波守勝英が、戦いで戦死した兵の霊を弔うためこの地に創建したと言われている。境内には、地蔵菩薩立像のほか、普門品供養塔、如意輪観音の二十二夜供養塔などの石造物が建っている。

佐間天神社 蕎麦あんど 清善寺 天満稲荷神社
高源寺の斜向かいに県道77号から左に分岐する旧道があり、旧道の左手に佐間天神社がある。佐間天神社は、忍城城主の成田氏が忍城築城の際、城の南出口に当たるこの地に慈眼山安養院の守護神として創建したといわれている。境内には、神楽殿、境内社の稲荷神社、三峯神社のほか、佐間学校跡碑などがある。 佐間天神社を出ると直ぐ先で県道77号に合流し、200m程進むと左手に 「蕎麦あんど」 の建物が建っている。この建物は、「ほうらい足袋」 の商標で知られた奥貫家が大正から昭和初期頃に建てた足袋蔵である。 蕎麦あんどの直ぐ先のT字路を左折して140~50m程進むと、右手に曹洞宗の平田山清善寺がある。清善寺は、永享12年(1440)に当地の豪族成田刑部少輔顕忠により創建されたと伝えられている。参道口には、街道の途中にあった新兵衛地蔵尊常夜燈が建っており、境内には庚申塔・宝篋印塔などの石造物のほか、無縁塔に新兵衛地蔵尊が建っている。 街道に戻ると直ぐ右手に天満稲荷神社がある。当社は、文政6年(1823)松平11代忠尭が桑名から忍藩に移封された時、桑名に鎮座されていた稲荷神社を城の吉方辰巳天満の方角に遷座し、弘化3年(1847)行田の大火にも火難を逃れ、天満与力の信仰厚く火防の神・産業の神として信仰されてきたという。(境内由来碑より)

大澤蔵 行田八幡神社 今津印刷所(今津蔵) 武蔵野銀行行田支店
天満稲荷神社から程なく左手に大澤蔵が建っている。この蔵は、「花形足袋」 大澤商店の7代専蔵によって大正15年(1926)に建てられた、間口4.5間・奥行2.5間の2階建ての文庫蔵です。行田唯一のレンガ蔵で、外面には登り窯で手焼きされた焼過レンガが、丁寧に積まれています。黒目のレンガと白い漆喰の対比がモダンな印象を与えます。内部も贅を尽くした造りとなっており、「建築が第一の趣味」 であった7代専蔵のこだわりが感じられます。(案内板より) 大澤蔵の斜向かいの筋を右に入っていくと、八幡通りに突き当たり、右手に行田八神社がある。行田八幡神社は、過去の災禍により創建年代等は不詳であるが、源頼義・義家が奥州征伐のためこの地に滞陣した際、戦勝を祈願して勧請されたと伝えられている。境内には、愛宕神社・大国主神社・恵比寿神社・三峯社・八坂社・目の神などの境内社がある。 街道に戻ると200m程先の右手に今津印刷所(今津蔵)が建っている。今津印刷所は、元禄年間(1688-1703)創業と伝えられる老舗印刷所で、田山花袋の小説 「田舎教師」 の 「行田印刷所」 のモデルにもなっています。嘉永年間(1848-53)に棟上げされた間口3間・奥行6.5間の店蔵と、間口2間・奥行2.5間の味噌藏が中庭を挟んで並んでいます。店蔵は現存する市内最古級のもので、旧店舗部分が2階建てになっています。(案内版より) 直ぐ先で県道128号の交差点に突き当たり、街道は右折していくが、この交差点左角に武蔵野銀行行田支店店舗が建っている。この建物は、忍貯金銀行の店舗として昭和9年6月28日に竣工している。建物脇には、高札場跡碑が建っているが、この高札場は、安永年間(1772-80)に設置されたという。

愛宕神社・事任神社 高札場モニュメント 御本陣跡碑 保泉蔵
武蔵野銀行行田支店の裏手(北側)の筋に 「足袋とくらしの博物館」 があり、この脇に愛宕神社・事任神社がある。当社の由緒等は不明であるが、社殿は石垣を組んだ段上に設置されており、鳥居の脇には、代官所跡碑が建っている。 街道に戻ると県道128号の交差点角に高札場のモニュメントが建っている。忍城御三階櫓の復元を機に、行田の市街地では城下町の香りのする町造りが進められてきました。浮き城の径、街路灯、御影石の歩道、あきんど館の建設、電線地中化、モニュメントの設置と新城下町の風情が現れました。忍城の城下町として栄えたこの通りは、16世紀にはもう市が立ち、賑わいを見せていました。(説明札より) 街道に戻って県道128号を進むと左手の埼玉県信用金庫行田支店の前に御本陣跡碑が建っている。安永4年(1775)に樋口家が本陣を勤めている。 御本陣跡碑の直ぐ先左手に保泉蔵がある。この行田随一の蔵並みは、かつて行田一の足袋原料商であった保泉商店の足袋の原料倉庫群です。保泉商店は明治35年に創業し、明治42年に手前側の土蔵を買い取って移転しました。そして大正5年に間口10間・奥行3間の奥の土蔵を新築、昭和元年2月には大谷石の店蔵を、昭和7年に一番奥の石蔵を建設し、西側を塗り壁で繋いでこの蔵並みを完成させました。(案内板より)

行田市駅
今回はここで終了し、最寄りの秩父鉄道の行田市駅より帰宅の途に就いた。行田市駅は、大正10年(1921)に北武鉄道の行田駅として開業し、昭和41年(1966)にJR高崎線の行田駅の開業に伴って行田市駅に改称した。

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