川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である。
 明治の中頃、渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた。生活を脅かされた農民たちは、銅山の鉱業停止や補償を求めて再度に渡り大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった。
 明治31年(1898)9月大暴風雨による洪水は、銅山の沈殿池が決壊し、渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害を受けた。耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて、第3回東京押出しを決行した。
 その数一万余人、薄着姿の老人も見られたという。
 時の栃木県選出代議士田中正造は、この報に接し、急ぎ上京途中の一行に会い、多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した。その演説は、被害民を動かし、警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという。
 この後、田中正造は足尾鉱毒問題解決に献身し、議会に於いても再三再四政府を追及したが、政府の答弁は終始曖昧に終わった。
 明治33年(1900)2月13日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために、被害民たちは決死の覚悟で第4回目の東京押出しを決行した。
 前夜から邑楽郡渡良瀬村(現舘林市)の雲龍寺に終結した2500余名の被害民は、翌朝9時頃、大挙上京請願のために同寺を出発、途中、警察官と小競り合いを演じながら、正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着。ここで馬舟各一隻を積んだ2台の大八車を先頭に利根川に向かったが、その手前同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで、待ち受けた300余名の警官隊に阻まれ、多くの犠牲者を出して四散した。これが川俣事件である。
 この事件で負傷し、現場及び付近で捕縛された被害民15名は近くの真如院(お寺)に連行された(翌日以降の捜査で総数100余名が逮捕され、うち51名が兇徒聚衆罪等で起訴された)。
 この事態を重く見た佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は、村医を呼び負傷者に応急手当を施し、炊出しを行い、握り飯を差し入れるなど被害民の救済につとめた。この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し、これを後世に伝えている。
 この後、政府の措置に失望した田中正造は、衆議院議員を辞職し、天皇に鉱毒問題を直訴、以後谷中村遊水地化反対闘争へと戦いを続ける。
 この地で川俣事件が発生してから100年が経過し、今、足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び、環境問題にも強く訴え続けている。
 この史実を永遠に風化させないために、ここに川俣事件発生100年にあたり、記念碑を建立し、後世に伝えるものである。

 川俣集落は、旧日光脇往還(現在の旧122号線)を挟んで、両側に家並みが密集して形成されているが、これは江戸時代に宿場(旅人の宿泊設備、荷物の運搬に要する人馬などを継ぎ立てる設備のある所)であった名残である。江戸時代には、利根川沿いに渡船場も船着場も存在し、日光脇往還の重要な宿駅としてのみならず、利根川の渡津、利根川水運の河岸としても栄えた。
 日光脇往還は、往古より奥州への行路として利用されていたが、日光廟の建立に伴い江戸~日光の参詣道としても利用され 「日光脇往還」 と呼称されるようになった。この道路は、江戸日本橋~鴻巣までは中山道と重なり、鴻巣より行田(忍)―新郷―川俣―舘林の4宿を経由し佐野(天明)に至り、佐野~日光までは例幣使街道と重複する。このため4宿を含む鴻巣―佐野間を 「日光脇往還」 と称する場合もある。
 日光脇往還を通行した主な人々は、次の通りである。
●徳川家康の遺骸の通行・・元和3年(1617)3月28日、駿河の久能山から日光に改葬時
●日光火の番衆(八王子千人同心)の通行・・承応2年(1653)~幕末まで約50人づつ、半年交代
●徳川御三家が将軍の日光社参時に通行・・少なくとも徳川家光の寛永19年(1642)の社参時まで遡る
 川俣宿は、古文書によれば、寛永20年(1643)頃には宿駅として成立していたものと推定される。また元禄元年(1688)には助郷村として12ヶ村が指定され、大名の通行時等の場合、この村々が応援の人馬を負担したことが知られている。
 川俣渡船場は、元和2年(1618)に関東16渡津の一つに挙げられ、渡船者の厳重な取締りが行われるなど、江戸防衛のための拠点とされていた。また渡船場から富士が美しく見え、庶民からは 「富士見の渡し」 と称されていた。
 川俣河岸は、江戸初期より廻米(年貢米)や材木の津出し(船による江戸への積出し)の拠点として機能し、弘化3年(1846)においては、館林領48ヶ村の内27ヶ村の年貢を扱っていたと記録されている。
 以上のように江戸時代に繁栄を極めた川俣宿は、明治40年(1907)の鉄道の開通により、その役割を果たし、現在に至った。
(明和町川俣宿保存研究会)

 足尾銅山の鉱毒に苦しめられた渡良瀬川流域の農民は、明治33年2月13日、鉱業停止を求め東京へ向かうが、その途中、この地(橋付近)で警官隊と衝突した。これが、川俣事件である。
 当時の佐貫村長や村民は、負傷した農民を真如院にて手厚く介護したということである。
(明和町教育委員会)

川俣事件衝突の地碑

真っすぐ北に延びる川俣宿並み

川俣宿辻燈籠

川俣宿の歴史

川俣事件記念碑