日光御成街道の江戸日本橋から数えて4番目の宿場である大門町は、中世から鎌倉街道中道の道筋として発展し、毎月8の日に市が立った。この市については、戦国期の成立とされる
「市場之祭文写」 に 「足立郡大門市祭成之」 と記されており、市を開くに当たり修験者により無事息災と繁盛を祈って祈願文が読み上げられたことがわかる。
当社は、この大門町の鎮守として祀られてきた神社で、「風土記稿」 大門宿の項に 「十二所権現社 村の鎮守なり」 とあるように、かつては十二所権現社といったが、明治40年6月14日に地内の無格社8社と大字玄蕃新田の村社木傘神社・大字下野田の村社稲荷社の計10社を合祀したことにより、改称したものである。往時の社名は熊野十二所権現に由来すると思われ、本山派修験として勢力のあった中尾村(現緑区中尾)の玉林院の活動が創立の背景にあったと考えられる。
江戸時代には、真言宗の熊野山宝光院華蔵寺が当社の別当で、明治5年に廃寺となるまでは参道西側に堂があった。開山の源盛は寛永元年(1624)に寂している。その末裔は当社隣の熊野家である。 境内にある愛宕神社は、元禄年中(1688-1704)の創立で、当時大門宿に大火があり、過半数の家々が焼失したことから、里人が相図って火防の神である愛宕様を勧請し、円福寺境内の小高い丘に祀ったと伝えられる。明治5年の円福寺廃寺に伴い、当社に移された。
力石
愛宕神社本殿
(龍の彫刻は左甚五郎作と伝わっている)
天保3年(1833)の幟旗立て
境内社の御嶽神社
愛宕神社拝殿
境内社愛宕神社の両部鳥居
境内社の稲荷神社
境内社の天神社
境内社の浅間神社
大門神社本殿
本殿に施された彫刻
大門神社本殿
天保4年(1834)の手水石
手水舎
大門神社拝殿
大門神社一の鳥居の両部鳥居
大門神社二の鳥居の両部鳥居
鳥居に掛かる大門神社の扁額
ケヤキ並木の参道
大門神社三の鳥居の両部鳥居
大門神社由緒