江戸時代の明和2年(1765)に鳩ヶ谷宿で生まれた小谷三志は、鳩ヶ谷宿の問屋役を勤める傍ら、富士山の神を信仰する富士講の指導者でもありました。ある時、当時の富士講が形式的であり、富士講の原点は社会に役立つものであると知り、富士講を自ら改革して不二道を興し、その指導者となりました。
三志は、この不二道を通じて、富士山の神の下では男女や士農工商の四民が平等で、恩に対する感謝の心を忘れず、真面目に働き社会奉仕を実践することが社会の平和に繋がることなどを、全国を旅しながら多くの人に説明し実行させました。その影響を受けた人の数は、5万とも10万とも言われています。
三志の弟子達の活動に感心した、二宮尊徳とも親交があった三志は、天保12年(1841)に75歳で亡くなり、桜町の地蔵院に眠っています。死後、その業績から、大正7年(1918)に宮内省から従5位が贈られ、三志が残した多くの書物は、埼玉県の文化財にも指定されています。かつての居宅跡は現在地の北東側に位置していました。
(川口市教育委員会)
小谷三志の旧宅跡案内
小谷三志の旧宅復元模型