歴代住職墓(卵塔)
女郎仏碑
女郎仏標柱
明和7年(1770)の一面六臂の青面金剛の庚申塔
常夜燈
大正11年(1922)の御百度参拝碑
文政4年(1821)の成田山不動尊
馬頭観世音
女郎仏は、この近在では誰一人として知らぬ者のないほど知られた仏であり、昔から下の病に霊験あらたかであると人々の信仰を集めている。
由来については、資料が無く、昔から言い伝えのみであるが、最も信ずべき石井栄助氏の書き残された記録によると、寛政2年(1790)3月1日暴風雨があり、翌日、村役人が土手山という官林を見回りに行ったところ、山の中から若い女のすすり泣く声が聞こえてくるので、行ってみると、18・9歳位の気品卑しからぬ女性が病に倒れ、苦しんでおり、いろいろ事情を尋ねてみたが、病い重く、言葉も絶え絶えで、手掛かりとなる所持品もなく、どこの者ともわからぬため、仮小屋を造り、手当てをしたが、その効果もなく、5日後に息を引き取ってしまった。この女の人を葬ったのが女郎仏である。
女郎仏とは、その女性があまりにも美しく、可憐な乙女であり、身分を明かさなかったので、もしや女郎ではなかったかとのことから言われるようになったと思われる。
女郎仏の由来
昭和7年(1932)石神中造立の手水石
天保2年(1832)の手水石
手水舎
妙延寺本堂
地蔵堂(石神自治会館?)
石神自治会館に掛かる地蔵堂の扁額