日光御成道と鳩ヶ谷宿
 現在地は、鳩ヶ谷宿の下宿で、左の吹上橋を渡って坂を上ると宿の中心・中宿です。
 日光御成道の前身は、鎌倉時代の鳩ヶ谷を通り奥州へ向かう幹線道路の鎌倉中道です。慶長5年(1600)に、徳川家康は会津の上杉景勝を攻めようとこの中道を北上して鳩ヶ谷に泊り、小山に至った時、石田三成の挙兵を知りました。すぐさま引き返して関ヶ原の戦いで勝利し、江戸幕府を開きました。家康は遺言により日光東照宮に祀られましたが、間もなく、将軍家は、この道を縁起の良い道として整備し鳩ヶ谷宿も出来ました。以来、将軍家が日光社参に利用したので、その名があります。
 日光御成道は、江戸の本郷追分(文京区)で中山道から分かれ、幸手宿の手前で日光街道に合流するまでの12里30町(約50㎞)の街道です。その宿場町・鳩ヶ谷宿は、江戸から4里30町(約19㎞)にあり、北から上・中・下の宿に分かれた家並みは4町20間(470m)、天明6年(1786)の記録では、家198軒・人口821人でした。
 鳩ヶ谷宿は、周辺の商業や文化の中心地として栄え、特に江戸時代の中頃に始まった三八市は、出店が並びたいそう賑わい、市の神を祀る市神社は、今も、当時の面影を伝えています。また、旅人のための榎を植えた一里塚が、吹上橋の北袂の両側にありました。
 この前方の坂を上った宿の中心地・中宿にあたる本町商店街は、江戸時代の町割りをほぼ残しています。
(川口市教育委員会)

「日光御成道と鳩ヶ谷宿」 案内板

吹上橋橋標(親柱)

見沼代用水東縁上流域

昭和初期の吹上橋付近で水遊びをする子供達

明治34年(1901)の鳩ヶ谷宿中心(中宿)付近

日光御成道分間延絵図の鳩ヶ谷宿部分