この道は、江戸時代に徳川将軍家が日光社参に使用した日光御成道で、川口宿からここを通り鳩ヶ谷宿まで松や杉の並木が続いていました。残念ながらこの並木は、昭和40年(1965)の国道122号の拡張により切り倒されました。
しかし、当時の並木は、時折り吹く風に並木の梢が鳴って、一幅の絵のようであったことから、町の有志が鳩ヶ谷八景のひとつとして 「松原晴嵐」 と名づけ、この石碑を建てました。
変電所前の国道から分岐する県道さいたま・鳩ヶ谷線が、日光御成道を踏襲する道で、北進すると鳩ヶ谷宿に至ります。
昭和40年の現在地
日光御成道と松原晴嵐の碑説明
植栽の中に建つ松原晴嵐の碑