大正12年(1923)の伊勢大々御神楽奉献記念碑
明治23年(1890)の常夜燈
文化2年(1805)の伊勢太々講中碑
境内社の天神社・山王社・稲荷社の合殿
享和3年(1803)の手水石
手水舎
拝殿に掛かる奉納された草鞋
阿形の狛犬
子日神社本殿
吽形の狛犬
子日神社拝殿
当初は隣の西新井と一村であったが、元禄年間(1688-1704)以前に分村し、しばらくは西新井宿村に対して当地を東新井宿村と呼んでいた。この東西の新井宿は、日光御成街道を境として分けられ、文化3年(1806)の
「日光御成道分間延絵図」 を見ると、街道の東側に当村の鎮守子聖権現(当社)と別当多宝院、街道の西側に西新井宿村の鎮守氷川明神と別当宝蔵寺という形で、両村の社寺が街道を挟み対面して描かれている。当社は
「風土記稿」 に 「子日権現社 村の鎮守なり、天神山王稲荷の三神を合祀せり、多宝院持ちなり」 と記されている。
社名の 「子日」 についてであるが、一般に旧暦10月の初めての子の日には、「子祭り(ねまつり)」 と称して収穫祭が行なわれる。このことから、当社で現在10月5日に行なっている
「お日待」 が、子の日の 「子祭り」 の名残とも考えられる。
当社はまた、近在の人々からも腰から下の病、特に足の神として信仰され、古くから病気平癒の願掛けの際には、鉄製や藁製の草鞋を社殿の格子に下げるのが習わしで、今でも草鞋のほかスリッパや下駄などを奉納する人が見受けられる。
両部鳥居に掛かる鎮守子日宮の扁額
石鳥居に掛かる正一位子日大権現の扁額
子日神社両部鳥居・後ろに石鳥居
子日神社由緒