里程標に確認できる文字

鳩ヶ谷町へ壱里二・・・
岩槻町へ弐里二拾・・・
距浦和町元標二里三拾町五拾八間・・・
原市町へ三里二拾三町四拾九間・・・

植栽の中の里程標

 大門宿は、日光御成道の宿場である。日光御成道は、江戸幕府の将軍が日光東照宮(栃木県日光市)に参詣(日光社参)する際に使用した道であり、本郷追分(東京都文京区)で中山道から分岐し、幸手宿(幸手市)の南で日光道中に合流するまでの街道である。
 大門宿は江戸から3番目の宿場(岩淵・川口は合わせて一宿の扱い)で、寛文6年頃までには宿場として成立していたと考えられている。江戸時代末期の天保14年(1844)当時の規模は、戸数180軒、人口896人、本陣と脇本陣各1軒、旅籠6軒であった。その内の本陣がこの場所にあった。大門宿の中央、街道の北側にあたる。現在、正面の入口の表門が保存されている。
 この表門は、門扉の両側に部屋が付属する長屋門形式である。寄棟造、茅葺で、間口16.31m、奥行4.58mである。元禄7年(1694)に建立され、文政7年(1824)に修理された。
 将軍家の日光社参は、19回行われた。将軍家が岩槻城(岩槻区)に宿泊する際、大門宿には供奉する幕臣が分宿した。第10代将軍徳川家治の安永5年(1776)の日光社参では、本陣に伊予松山(愛媛県松山市)城主の松平定静が、脇本陣には播磨姫路(兵庫県姫路市)城主の酒井忠以が宿泊した記録がある。
 なお、大門宿の本陣は会田家が勤めていた。会田家は、本陣の他に宿の問屋や大門町の名主、紀伊徳川家鷹場の鳥見役なども勤めていた。
(さいたま市)

内側から見た本陣表門

大門宿本陣表門の長屋門

埼玉県指定史跡大門宿本陣表門標柱

大門宿本陣表門説明