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旧成田街道   (新宿追分~船橋


平成30年7月16日(月)   ☀|☁   新宿追分~船橋    12.0㎞
旧成田街道は、江戸時代後期に成田山参詣が盛んになってからの呼称であり、それ以前は佐倉街道と呼ばれて、江戸城と佐倉藩や多古藩などを結ぶ街道であり、酒々井から九十九里浜方面へ向かう道であった。酒々井から成田山へ向かう道はその支道であったが、今回はこの旧成田街道を水戸街道新宿(にいじゅく)追分から成田山新勝寺まで歩くこととした。新宿追分からは、市川宿・八幡宿・船橋宿と続いている。

両津勘吉像 新宿追分 さくら海道道標 貨物線踏切
新宿追分までの最寄り駅は、JR常磐線の亀有駅なので、ここで降りると駅前に秋本治原作の漫画 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」 の主人公である両津勘吉像が建っている。
この像は北口にあるが、南口にも両津・中川・麗子などの像が建っている。
旧水戸街道の新宿一里塚跡の先で左に曲がるのが旧水戸街道で、右に曲がるのが旧成田街道である。
曲がると直ぐ国道6号線を渡り、向かいの一方通行路へ入っていく。
旧道を先に進んで、亀有警察署亀田橋駐在所の先を左折すると、右手に角柱三猿浮彫道標がある。
道標はかなり風化しているが、正面に 「これより右ハ下河原村 左さくら海道」 と刻まれている。傍らには、風化の激しい如意輪観音・地蔵菩薩などは安置されている。
先に進むと総武線新小岩駅と常磐線金町駅を結ぶ貨物線の高砂踏切がある。

大秀寺 崇福寺 源照寺 妙栄院
高砂踏切を渡って間もなく、左手に浄土宗の弘誓山威徳院大秀寺がある。
大秀寺は、寛永5年(1628)、宝誉上人林残和尚が本郷湯島に創建し、明暦の大火で浅草山谷に移転したが、関東大震災で罹災し、大正15年(1926)にこの地へ移転したという。
境内には六地蔵尊のほか、地蔵菩薩半跏像の一心地蔵尊がある。
大秀寺に隣接して曹洞宗の海島山崇福寺がある。崇福寺は、徳川家康が江戸幕府を開く3年前の慶長5年(1600)香山泰厳和尚が日本橋浜町に崇福庵を建立したことに始まる。その後、明暦3年(1657)の大火により浅草松清町に移転したが、大正12年の関東大震災により被災し、昭和3年(1928)ここ高砂に移転した。境内には、浅草崇福寺跡地で発見された300年前の水子地蔵尊がある。 崇福寺の北側に隣接して浄土宗の円光山薫香院源照寺がある。
源照寺は、寛永3年(1626)照蓮社寂誉上人薫香宗円和尚が、浅草蔵前鳥越付近に創建したが、明暦の大火で被災し山谷新鳥越(台東区山谷)に移転した。その後、関東大震災で焼失し、昭和3年現在地に移転した。墓所には、江戸時代の琴曲山田流開祖の山田検校の墓がある。
街道に戻って先に進み、二車線道路を渡った先の右手たかさご保育園脇の路地を入っていくと左手に日蓮宗の日見山妙栄院がある。妙栄院は、大正12年(1923)本所横網町に創建され、その後、現在地に移転したという。境内には浄行菩薩・稲荷大明神があり、本堂の向いに子育地蔵尊を祀る地蔵堂と大師堂がある。

京成金町線 旧佐倉街道道標 北総線 親水さくらみち道標
街道に戻ると、直ぐ先で京成金町線が横切っている。
京成金町線は、京成高砂駅から京成金町駅を結ぶ営業キロ2.5㎞の路線で、密集した住宅街を走る鉄路である。
京成金町線の踏切を渡り、右手の京成ドライビングスクールの向い側歩道上に道標が建っている。
正面に七福神像が陽刻され、標柱に小さな文字で佐倉街道について記されている。
道標の先は桜並木が続き、途中、北総線の高架が横切っている。
北総線は、北総鉄道㈱が運営する京成グループの一つであり、32.3㎞の路線を有している。
柴又五丁目交差点を過ぎて、江戸川区に入ると左手に 「親水さくらかいどう」 と刻まれた道標があり、ここから490mの 「健康の道」 という遊歩道がが続いている。
街道脇には江戸川の水を取り入れた水路が流れ、途中に 「親水さくらかいどう」 解説や石碑がある。

八幡神社 親水さくらみち道標 上小岩親水緑道 唐泉寺
健康の道遊歩道を進み、途中の信号十字路の先の左手路地を入っていくと、八幡神社がある。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、元禄8年(1695)の記録には社名が記されており、社務所には万治元年(1658)の庚申地蔵尊が安置されている。
境内には、大正5年(1916)から約1年間、この地に妻と共に住んでいた 「北原白秋」 の歌碑が建っている
街道が江戸川の堤防に突き当たる辺りで、490mの 「健康の道」 は終了し、親水さくらかいどう道標が建っている。
ここには親水施設の小屋、水神碑などが建っている。
親水さくらみちの 「健康の道」 が終わると、右手に上小岩親水緑道が真南に向かって960m続いている。この道は、明治11年(1878)に農業用水路として開削されたが、その後、水道整備により役割を終え、その跡地を利用して整備されたものである。
街道はこれより一本東を江戸川堤防に沿って南東に向かっており、街道口にある地蔵堂に正徳3年(1713)の廻国供養塔などが安置されている。
先に進むと右手に真言宗総本山御寺泉涌寺派のの吉祥山唐泉寺がある。
唐泉寺は、真言宗泉涌寺派に属する都内唯一の寺院であり、境内には、不動明王像・稲荷神社・七福神像などがあり、道を挟んだ向かいには永代供養の遍照塔が建っている。

分岐 小岩田天祖神社 真光院 光ヶ嶽(てるがたけ)観音堂
先に進むとY字路となり、街道は右手の道を進んでいく。 Y字路を右に入ると、直ぐ右手に小岩田天祖神社がある。
小岩田天祖神社の創建年代等は不詳であるが、天正年間(1573-92)に神明宮として創建されたと言われ、境内には文政10年(1827)の手水石、明治7年(1874)の常夜燈などがある。
小岩田天祖神社から100mほど先の左手に、真言宗豊山派の稲荷山真光院遍照寺がある。真光院は、慶長7年(1602)法印良鎫(りょうばん)が開山したと伝えられている。
門前に青面金剛と馬頭観音が祀られており、境内には樹齢200年を超えるケヤキとスダジイが立っている。
街道に戻って先に進むと、右手の北小岩四丁目児童遊園の奥に光ヶ嶽観音堂がある。光ヶ嶽観音堂は、文禄元年(1592)地元の沖田家祖先豊前が屋敷内に御堂を建立したのが始まりと伝えられている。
観音堂には、光ヶ嶽観音といわれる室町時代末期の武将里見義豊義俊の守り本尊が安置されている。公園の一角には地蔵堂があり、周囲に元禄銘の供養塔などが多数ある。

京成本線 北野神社 御番所町跡 道標
先に進むと京成本線が横切っており、街道の上に江戸川駅がある。 京成本線江戸川駅の下をくぐると、右手に北野神社がある。
北野神社の創建代等は不詳であるが、江戸時代には旧伊予田村にあった稲荷神社で、この地の鎮守であったという。その後、明治になって北方にあった北野神社を合祀し、社名を北野神社と改めた。境内には、文政8年(1825)の手水石、寛政8年(1796)の天神宮石祠などがある。
北野神社の直ぐ先は三叉路で、街道が左折する角に御番所町跡がある。
ここは旧伊予田村に属し、佐倉道と元佐倉道の合流するところで南北に走る岩槻道にも接する交通の要衝であった。
小岩市川の渡しが定船場となり、御番所(関所)が置かれたことから御番所町と称したと言われている。
三叉路の右手角の民家前に道標が建っている。この道標は、御番所町の慈恩寺道石造道標と言われ、佐倉道と元佐倉道の合流点にあって、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると、道筋のほぼ正面に見えたと言われる。
銘文は安永4年(1775)に建てられたもので、岩槻・江戸・市川の三方面を示している。

宝林寺 小岩市川の渡し跡 市川関所跡 春日神社
道標の直ぐ西側に、真言宗豊山派の愛宕山地蔵院宝林寺がある。
宝林寺の創建年代は不詳であるが、大秀法印が創建したと言いわれている。
境内には高さ4mほどの小岩市川の渡しにあったという常夜燈のほか、文化元年(1804)の庚申塔・寛文10年(1670)の地蔵庚申塔などがある。
街道に戻って三叉路を進み、江戸川堤防に出ると小岩市川の渡し跡がある。
ここは小岩の渡しであるが、関所と同様、対岸の市川の渡しと一対で 「小岩市川の渡し」 と呼ばれていた。
この直線上の対岸に市川関所跡があるが、下流の市川橋で迂回して千葉県へ入っていく。
市川橋の渡詰めの堤防を左折していくと、冠木門のある市川関所跡がある。
市川の関所は、江戸へ入る武器と江戸から出ていく女性が、特に厳しく取り締まられ,、対岸の小岩関所と一つの関所として 「小岩市川関所」 と呼ばれていた。
市川関所跡から県道1号線に出ると、左手に春日神社がある。
春日神社の創建年代等は不詳であるが、かつて町内を巡行した武内宿祢山車人形が保存されている。人形はここ20数年は組み立てられることなく保存されているが、同神社の祭礼時などに公開されている。

安国院 観音寺 胡録神社 極楽寺
春日神社の一本先の路地の突き当りに、日蓮宗の玉泉山安国院がある。
安国院の創建年代等は不詳であるが、境内には布袋尊像・清正公記念碑などがある。
街道に戻って国道14号線に突き当たると、市川広小路交差点の右手に真言宗豊山派の天宮山観音寺がある。
観音寺の創建年代等は不詳であるが、境内には大師堂があり、寺の駐車場脇には青面金剛の庚申塔がある。
市川広小路交差点の直ぐ先、左手に胡録神社がある。
胡録神社の創建年代等は不詳であるが、境内にはレンガ造りの神輿庫、稲荷神社・天満神社・八幡神社を合祀した境内社、道祖神のほか、多くの石碑がある。
胡録神社の脇の路地角に極楽寺寺標があり、この路地を入っていくと右手に真言宗豊山派の極楽寺がある。
極楽寺の創建年代等は不詳であるが、境内には大師堂、興教大師八百五十年御遠忌記念塔、宝篋印塔などがある。

弘法寺寺標 庚申塔道標 春日神社 胡録神社
街道に戻って進むと、左手路地角に日蓮宗真間山弘法寺寺標が建っている。
弘法寺は、奈良時代、行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺が始まりと伝えられている。
弘法寺は、この寺標から1㎞ほど北に進んだところにあるので、参詣は次の機会にして先に進むこととした。
先に進んで、信号を3つ越えた左手の路地角に青面金剛と刻まれた庚申塔の道標が建っている。
正面に 「青面金剛」、右面に 「八わた十六丁 中山一り」、左面に 「市川八丁 江戸両ごく三里十丁」 と刻まれている。
比較的広い歩道を進んでいくと、左手のマンション脇の路地に春日神社社標があり、この路地の突き当たりに春日神社がある。
創建年代は不明であるが、万治元年(1658)再建され、その後、平成19年に焼失したが、翌平成20年に再建され、まだ新しい社殿が建っている。境内には天保2年(1831)の手水石、天満宮の境内社がある。
街道に戻って300mほど進むと、左手に新田の胡録神社がある。
胡録神社の創建年代は不詳であるが、承応2年(1653)の再建で、境内には稲荷神社の境内社がある。

道標 諏訪神社 聖徳太子堂 葛飾八幡宮
胡録神社から100mほど先の左手一方通行路入口角に2基の道標が建っている。
手前の大きい方は、寛政11年(1799)のもので、正面に地蔵菩薩坐像が刻まれ、「右や王多道 左春可野道」と刻まれており、小さい方は 「左宮久保山道」 と刻まれている。
道標から30mほど先に諏訪神社がある。
創建年代は不詳であるが、祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)であり、信濃国諏訪大社より勧請した神社である。
松並木の細い参道を進むと、二の鳥居の先に拝殿が建っている。境内には、出雲社・美保社・稲荷社・天満天神宮などの境内社がある。
街道に戻って市川郵便局の一本手前の路地の突き当りに聖徳太子堂がある。
聖徳太子堂は、文化3年(1806)の古地図に既に堂宇が記されていることから、基となる堂宇の建立はそれ以前と言われている。お堂に安置されている聖徳太子像は、万治元年(1658)の庚申講中のもので、境内には聖徳太子碑・延宝9年(1681)の青面金剛の庚申塔などの石造物がある。
先に進んで本八幡駅前交差点を過ぎると、左手に葛飾八幡宮の大きな鳥居が建っており、鳥居をくぐって京成本線の踏切を渡ると社殿がある。
葛飾八幡宮は、宇多天皇の勅願により京都の石清水八幡宮より勧請し、下総の国総鎮守八幡宮として鎮座したのが始まりである。参道を進むと朱色の随神門があり、その先に神門があって、正面に拝殿がある。境内には神楽殿、国指定天然記念物の千本公孫樹、源頼朝公駒どめの石などがある。

八幡の藪知らず 東昌寺 境橋 神明寺
街道に戻ると直ぐ右手の竹林前に不知八幡森(八幡の藪知らず)がある。
竹林一帯は広さ300坪、北側は千葉街道、東西南は民家と接しているが、かつてはもっと広かったと言われている。
玉垣の中に安政4年(1857)の不知八幡森碑が建っており、一度入ったら二度と出られないと語り継がれてきた。
先に進むと程なく左手に曹洞宗の浅間山東昌寺がある。
東昌寺は、天正年間(1573-92)太誉和尚が創建し、当初は八幡6丁目付近にあったが、寛永元年(1624)万明和尚が現在地に移したと言われている。墓所には戊辰戦争の際に、八幡で戦死した官軍兵士3名の墓があるというが、墓所では法要が行われており、立ち入るのは遠慮した。
街道に戻って市川インター入口交差点を越えると、真間川に架かる境橋がある。
真間川は、全長8.5㎞で、千葉県西部で江戸川から分かれ、流路の大半は市川市内を流れ、下流で東京湾に注いでいる。境橋の渡詰めに、坪井玄道生誕の地がある。坪井玄道は、日本における戸外遊戯の必要性を説いて、海外スポーツの普及に努めた明治時代の体育学者である。
先に進んで右手にある鬼越郵便局の斜向かいの一方通行路を北に入っていくと、左手に真言宗豊山派の鬼越山神明寺がある。
神明寺の創建年代は不詳であるが、境内には阿弥陀堂・大師堂のほか、小栗判官馬つなぎの銀杏と名付けらえた推定樹齢700年の大銀杏、寛文7年(1667)の庚申塔などがある。

神明社 常開寺 旧家 高石神社
神明寺の前の一方通行路を北に進むと、京成本線の踏切の先に神明社がある。
神明社は、元和2年(1616)伊勢の皇大神宮を勧請して創建され、境内には大正年間に村内にあった諏訪社・浅間社・天神社・道祖社などを遷座した境内社がある。
街道に戻ると、直ぐ左手に日蓮宗の塚原山常開寺がある。
常開寺の創建年代等は不詳であるが、参道口には享保18年(1733)の南無妙法蓮華経題目碑があり、境内には日朝堂などがある。
街道に戻ると鬼越二丁目交差点の右手に、レンガ造りの土蔵を二つ構えた旧家がある。 鬼越二丁目交差点を左折すると、左手の高台に高石神社がある。
高石神社の創建年代は不詳であるが、中山法華経寺文書によると、永享3年(1431)の記録に社名が出てくることから、創建はそれ以前と推定されている。境内には、文政2年(1819)の手水石、明和4年(1767)の常夜燈があり、本殿の裏手に日枝神社がある。

天神社 法華経寺 妙圓寺 子之神社
街道に戻って左手小栗原蓮池公園前を進むと、左手の路地奥に天神社がある。
天神社の創建年代は不詳であるが、
大正14年(1925)に社殿を新築し、社殿前には撫牛が祀られている。
街道に戻ると左手に法華経寺入口があり、京成中山駅前の踏切を渡ると中山参道総門がある。総門より100mほど先に法華経寺がある。法華経寺は、鎌倉時代に日蓮大聖人によって開創された日蓮宗の寺院で、国宝である日蓮大聖人の御真筆や五重塔、法華堂、祖師堂などの建造物など多数の文化財がある。 街道に戻ると左手に日蓮宗の東照山妙圓寺がある。
妙圓寺は、寛文10年(1670)日俊上人による開基であり、法華経寺新貫主晋山の際の入山前の休息所となる。本堂には出世開運の神である毘沙門天が祀られ、境内には大宮大権現がある。
先に進んで、船橋市役所西部公民館を過ぎると、左手に子之神社がある。
子之神社の創建年代等は不詳であるが、参道正面に拝殿があり、その左隣に妙見八幡社があり、参道脇にこの先の稲荷神社の小栗原神輿倉が建っている。

稲荷神社 多聞寺 二子藤の池 二子浦の池
街道に戻って20mほど先の左手筋を入っていくと、突き当りに稲荷神社がある。
この辺りは小栗原城址の台地であり、鎌倉時代に 「城」 という名の酒造家があり、この家の守神として屋敷内に稲荷神を祀ったのが始まりと言われている。
街道に戻ると直ぐ先左手に日蓮宗の宝珠山多聞寺がある。
多聞寺は、寺伝によると鎌倉時代末期の永仁6年(1298)、日蓮の直弟子であった日伝上人が開基と言われている。
境内には天明元年(1781)の釈迦牟尼仏碑、南無日蓮大菩薩碑、慈母観音菩薩像などがある。
多聞寺の向いの筋を入ると二子藤の池がある。かつて、この地には溜と呼ばれる池が、東西に並んでいくつかあった。これらの溜池は主に水田に水を引くためのものであったが、その他に種籾を水につけて発芽させるために利用されたり、野菜の洗い場としても利用された。
二子藤の池の名前は、この辺りが二子浦と呼ばれ、藤の古木があったことに由来するという。
二子藤の池から東へ50mほどのところに、二子浦の池がある。
池の名前は、昔、この辺りが 「二子浦」 と呼ばれ、日蓮上人が鎌倉との往来に利用した 「降り津」 であったことに由来する。

庚申塔 東明寺 葛飾神社の池 葛飾神社
街道に戻って右手の東中山一丁目公園前を過ぎると、その先の信号のある横断歩道の左手筋角に文政年間(1818-29)の庚申塔が建っている。
この筋を北に進むと京成本線の東中山駅である。
庚申塔から程なく、左手に浄土宗の薬王山神将院東明寺がある。
東明寺は、弘治3年(1557)誓誉上人が開基となり創建されたという。本尊阿弥陀如来の他、薬師如来を祀り、参道口に「部田薬師如来」と刻まれた石碑がある。部田は昔のこの地の小字である。
東明寺参道口から100mほど街道を進み、右手筋を入った右手に葛飾神社の池がある。
この池も二子藤の池・二子浦の池と同様、溜と呼ばれる池のうちの一つであるが、神社の所有ということで大事にされ、現在まで引き継がれてきたきたものである。
街道を先に進んで、中山競馬場入口交差点を過ぎると、左手に葛飾神社がある。
葛飾神社の創建年代等は不詳であるが、葛羅の井戸の西側に鎮座し、元惣社明神と称しており、大正5年(1916)この地にあった熊野権現社に合祀され、葛飾神社と改称したという。
境内には江戸時代から親しまれてきたクロマツがそびえ、天満宮・稲荷神社・日枝神社などを合祀した境内社がある。

勝間田公園 春日神社 武蔵野線
葛飾神社の東側に勝間田公園公園がある。
葛飾神社の解説にもあったが、昔ここは 「勝間田の池」 という湧水池であり、かつては、この池から水門を通して水路が造られ、水田へ水が引かれていたという。
池は、昭和45年(1970)に埋立られ、現在の公園として整備された。
勝間田公園から程なく、右手の千葉銀行の向いのさくら薬局の後方に春日神社がある。
春日神社の創建年代等は不詳であるが、社地はやや高台にあり、両部鳥居に屋根が付いたような神門をくぐると、正面に鉄筋コンクリート造りの拝殿があり、その裏側に本殿がある。
境内には 「かつしか田園の記」 碑のほか、石祠がいくつか並んでいる。
街道に戻ると、JR武蔵野線の高架が横切っている。武蔵野線は神奈川県横浜市鶴見区の鶴見駅から、ここ千葉県船橋市の西船橋駅間を結ぶ鉄道路線である。
今回は、ここで終了し最寄りの西船橋駅から総武本線で帰宅の途に就いた。

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