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清戸道   (江戸川橋~石神井


令和5年10月30日(月)   ☀    江戸川橋~石神井    15.0㎞
清戸道は、江戸時代に神田川に架かる江戸橋を起点とし、北西へ約5~6里(20~24㎞)の武蔵国多摩郡清戸(現清瀬市)を結んだ古道である。大正4年武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)が開通するまでは練馬・石神井・大泉から市中へ出るのに、この道が最も近道であった。途中に千川上水が流れていたため千川通りと呼ばれる区間もある。清戸道の起点は江戸川橋であるが、終点ははっきりしておらず複数の道があるようであるが、今回は下清戸に抜けて志木海道に突き当たるところを終点とし、清瀬駅にでるまでの神社仏閣に寄っていくこととした。

目白坂 大泉寺 永泉寺 養国寺
神田川に架かる江戸川橋の渡詰め左手から西に向かって緩やかに上る目白坂がある。江戸川橋の渡詰めは、江戸川公園になっており、春は桜を見ながら散策を楽しむ人々で溢れいる。目白坂の上り口に目白坂と清戸道の説明板が建っている。 目白坂説明板の直ぐ先右手に浄土宗の寶國山寶珠院大泉寺がある。大泉寺のご本尊は阿弥陀如来で、慶長5年(1600)に能悦和尚が後の水戸邸の地の一角を賜わって堂宇を建立したのが始めといわれている。境内には十二支堂のほか、舟型光背の阿弥陀如来立像、舟型光背の地蔵菩薩半跏像、五輪塔などたくさんの石造物がある。 大泉寺の西に隣接して曹洞宗の関口山永泉寺がある。永泉寺のご本尊は釈迦牟尼仏で、寛永元年(1624)創建といわれている。 永泉寺の西に隣接して浄土宗の法樹山安楽院養国寺がある。養国寺のご本尊は阿弥陀如来で、慶長15年(1610)の創建といわれている。

正八幡神社 幸神社 椿山荘 聖マリア大聖堂
養国寺の西に隣接して正八幡神社がある。正八幡神社の創建年代等は不詳であるが、別名を 「関口八幡宮」 とも呼ばれ、江戸時代には洞雲寺の所管で、目白台の水神社にあった椿山八幡宮を下の宮と呼ぶのに対し、当社は上の宮と呼ばれていたという。 正八幡神社から目白坂を上って250m程進むと、左手に幸神社がある。幸神社の創建年代等は不詳であるが、御祭神は猿田彦命・稲荷大神で、道山幸神社また駒塚神社とも称したという。 幸神社の先で都道8号(目白通り)に合流するが、この左手に椿山荘がある。椿山荘は、江戸時代には久留里藩黒田家の下屋敷があり、明治維新後元勲の山県有朋が旧屋敷を購入し、「椿山荘」 と命名したという。敷地内には池を配した庭園があり、椿や桜など植物や史跡を鑑賞できる。7年前(2016)に神田川を歩いた時に園内を歩いた記録があるので掲載する。 椿山荘の街道を挟んだ向かい側に東京カテドラル聖マリア大聖堂がある。当教会は明治32年に聖母仏語学校の付属聖堂として建てられ、明治33年に関口小教区の聖堂となり、その後大正9年に東京大司教座聖堂となったという。敷地内には、明治44年に建てられたルルドの洞窟、フランスから寄贈されたジョセフィーヌの鐘などがある。

胸突坂 水神社 目白台運動公園 小布施坂
聖マリア大聖堂の街道を挟んだ向かい筋に神田川へ下る胸突坂がある。かなりの急坂であり、道の中央に手摺が設けられている。ほぼ下り切った左手に芭蕉庵がある。ここも7年前(2016)に寄った記録があるので掲載する。 芭蕉庵の坂を挟んだ向かいの斜面に水神社がある。水神社の創建年代等は不詳であるが、「江戸砂子」 には、「上水開けてより関口水門の守護神なり」 と記されている。境内には三猿が刻まれた庚申塔があり、参道の階段を挟むようにイチョウの大木が立っている。 街道に戻って目白台三丁目交差点を過ぎると、左手に文京区立目白台運動公園が広がっている。 目白台運動公園を過ぎると、右手に日本女子大学、左手に日本女子大学附属豊明小学校がある。豊明小学校の脇の公園から左に下る坂道があるが、これが小布施坂である。

清戸坂 富士見坂・日無坂 稲荷坂 宿坂
小布施坂入口の右手は都道8号(目白通り)から分岐する都道437号(不忍通り)が北に向かって緩やかに下っているが、この坂道を清戸坂という。坂道の途中に清戸坂説明板が建っており、昔から清戸道に登る坂であることから清戸坂と呼ばれたという。 清戸坂(不忍通り)が都道8号(目白通り)に突き当たる南側に富士見坂と日無坂がある。この辺りの都道8号(目白通り)は台地の尾根を通っているため左右に坂が多い。写真の右手が富士見坂で登りの一方通行路、左手が歩道のみの日無坂である。 富士見坂から70m程先の左手には稲荷坂がある。坂の下り口に小さな稲荷神社があり、これが坂の名前の由来になっているようである。 稲荷坂から200m程先の左手に宿坂がある。富士見坂や稲荷坂に比べるとやや緩やかに下っている。この坂の下方に金乗院慈眼寺があり、山門前に宿坂の説明がある。それによると、その辺りに中世の頃、「宿坂の関」 と呼ばれる場所があったと言われ、それが坂の名前の由来になっているようである。

金乗院 鬼子母神 のぞき坂 地域の架け橋碑
宿坂をほぼ下り切った辺りの右手に真言宗豊山派の神霊山金乗院慈眼寺がある。金乗院は、開山永順が本尊の聖観世音菩薩を勧請して観音堂を築いたのが始まりと云われている。本堂の右手にある目白不動堂に安置された目白不動妙王は、江戸守護の五色不動(青・黄・赤・白・黒)の随一として名高い。墓地には、鎗術の達人丸橋忠弥、青柳文庫を創設した青柳文蔵などの墓がある。 宿坂を戻って街道に出ると向い側に鬼子母神の参道が北に向かっている。参道を進んで都電荒川線を越えた先に鬼子母神がある。鬼子母神は、永禄4年(1561)に清土(現文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を天正6年(1578)に現在の場所に安置したことに始まるという。境内には、樹齢600年の銀杏のほか、元禄8年(1695)の手水石、元禄4年(1691)の石燈籠などの石造物がある。 街道に戻ると直ぐ先左手筋にのぞき坂がある。これまでの富士見坂・日無坂・宿坂に比べて明らかに急勾配であり、ドラマやアニメなどに登場する坂である。勾配は22.3%で、道の先が見えず、思わず覗き込んでしまうことから、この名が付いたといわれる。 のぞき坂の街道yを挟んだ向かいに目白警察署千登世橋交番があるが、その前に地域の架け橋碑が建っている。碑には、「地域の架け橋 この出入り口が地域をつなぐことを紀念する」 と刻まれており、碑に貼られたプレートには、「東京メトロ副都心線雑司ヶ谷駅 目白通り口開設記念碑」 と刻まれている。

千登世橋 目白橋 子安地蔵尊 あけぼの湯跡
地域の架け橋碑の先に都電荒川線の跨ぐ千登世小橋があり、次いで明治通りを跨ぐ千登世がある。千登世橋から明治通りを見ると、明治通りが目白台を切り開いた切通の道であることが良くわかる。 千登世橋の先左手は学習院大学の敷地が続き、学習院大学の西門前がJR山手線の目白駅であり、駅前はJR山手線を跨ぐ目白橋である。 目白橋の先で新宿区に入り目白銀座商店街を900m程進むと、左手の筋角に地蔵堂があり子安地蔵尊が祀られている。子安地蔵尊の道路を挟んだ向かいは新宿下落合四郵便局である。 子安地蔵尊の先で都道317号(山手通り)を渡り、2本目の路地を右に入っていくと、左手に区民ひろば富士見台がある。ここは昭和48年頃まであった銭湯 「あけぼの湯」 跡地で、トキワ荘の西側にあった鶴の湯とともに、トキワ荘の漫画家たちが利用したところである。建物の壁面にキャラクター 「マーガレットちゃん」 の絵が描かれている・

分岐 お休み処 子育地蔵尊 トキワ荘跡地
街道に戻ると180m程先で都道8号(目白通り)から右に分岐する一方通行路がある。清戸道はこの一方通行路を入っていく。 分岐から間もなく右手にトキワ荘通りお休み処がある。この建物は、昭和元年(1926)築の 「吉津屋米店」 を改装して出来た 「豊島区トキワ荘通りお休み処」 である。トキワ荘のマンガ家たちは、この米店(当時は米配給所と呼ばれた)で米穀通帳の配布を受け、米の配達もしてもらったという。 お休み処から4軒ほど先の右手筋角に子育地蔵尊入口標柱があり、40m程先の突き当りに地蔵堂が建っている。地蔵堂には3体の地蔵菩薩立像が祀られている。お堂の右手に由来碑と説明があり、それによると、この地蔵尊は都道8号(目白通り)と一方通行路の分岐に建っていたものとのことである。 子育地蔵尊の筋から右手2本目の筋を入っていくと、日本加除出版㈱の前にトキワ荘跡地碑(モニュメント)が建っている。トキワ荘のモニュメントは精巧に作成されており、傍らにトキワ荘の間取りが刻まれたプレートもある。

昭和レトロ館 トキワ荘公園 岩崎家住宅 伊佐佐兵衛之墓
街道に戻ると直ぐ左手にトキワ荘通り昭和レトロ館がある。正式名称は 「豊島区立昭和歴史文化記念館」 であり、昭和の歴史や文化を継承していくための文化施設である。 昭和レトロ館から150m程先の左手にトキワ荘公園(豊島区立南長崎花咲公園)がある。園内には、トキワ荘跡地にあったモニュメントよりやや大きいモニュメントがあり、マンガ家の似顔絵プレートが貼られている。公園の奥には実物大のトキワ荘が復元されて、豊島区立トキワ荘マンガミュージアムとなっている。 トキワ荘公園から270~80m程進むと、左手に立派な門壁の岩崎家住宅がある。岩崎家は、古くからの豪農であり、明治期には油や糠(ぬか)などを商っていた肥料問屋であったという。。 岩崎家住宅から150m程先の信号交差点の右角に伊佐左兵衛之墓がある。全く不明な墓碑であるが、大正5年(1916)9月と刻まれている。

世子観世音 桜並木 地蔵堂 穴守稲荷神社
伊佐佐兵衛之墓の先で西武池袋線の東長崎駅へ向かう長崎銀座前を通り、およそ600m程先に進むと都道420号と交差する。この交差点を左に80m程入ると右手に祠があり、中に世子観世音が祀られている 街道に戻って都道420号を渡ると、そこからは都道439号(千川通り)となり、道の両側に桜並木が続いている。 交差点から200m程先の右手にあるファミリーマートの角を右に入ると小さな地蔵堂があり、中には小さな地蔵尊が祀られている。 地蔵堂筋の次の右手筋に朱い鳥居が建っており、40m程踏み込むと右手に穴守稲荷神社がある。穴守稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、社殿前の石鳥居に大正5年(1916)と刻まれていることから、これより前に祀られていたと思われる。

清戸道碑 武蔵野稲荷神社 桜台陸橋 清戸道碑
先に進んで江古田駅南口交差点を過ぎて200m程先の右手にある浩生会スズキ病院の前に清戸道碑と傍らに清戸道と千川上水の説明板が建っている。 清戸道碑から130m程先の右手筋に武蔵野稲荷神社の社標が建っており、社標の右手奥に武蔵野稲荷神社がある。武蔵野稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、ここは江古田・沼袋の戦いで太田道灌によって滅ぼされた豊島氏の死者を葬った塚という言い伝えがあるという。境内には随身門、祭儀殿、身代稲荷大明神のほか、臼作りをする大黒天、七福神などの石造物がある。 武蔵野稲荷神社を出ると左手に武蔵野大学のキャンパスがあり、その先で桜台陸橋(都道318号環状7号線)をくぐっていく。この先は右側の歩道に桜並木が続いている。 桜台陸橋をくぐって150m程のところに清戸道碑が建っている。傍らに清戸道と千川上水の説明板が建っているが、先にあったものと同じ内容である。

桜の碑 清戸道碑 大鳥神社 分岐
清戸道碑から300m程のところに 「桜の碑」 と傍らに 「桜の記念碑」 と題した説明版が建っている。 桜の碑から西武池袋線の高架に沿って450m程進むと清戸道碑が建っている。傍らに清戸道と千川上水の説明版が建っているが、これまでにあった説明と同じである。 清戸道碑から150m程先で練馬駅前交差点を過ぎて、最初左手筋を入ると右手に大鳥神社がある。大鳥神社は、正保2年(1645)にここ中新井村に3羽の鶴が飛来し、保護したが死んでしまったことから、鶴の霊を祀り、和泉国一宮大鳥神社(堺市)の祭神を勧請して神社にしたのが始まりと云われている。境内には薬師堂があり、石に陽刻された薬師如来像が祀られている。 街道に戻ると400m程先で左から来る都道8号(目白通りと交差するが、清戸道はここで都道439号(千川通り)から右に折れて都道8号(目白通り)へ入っていく。

西武線高架 庚申塔 庚申塔 馬頭観音
都道8号(目白通り)に入って450m程先で西武池袋線の高架下をくぐっていく。 西武池袋線の高架をくぐって植栽の植えられた歩道を進むと、歩道の左手を並行して走る道路の脇にブロック塀に囲われた中に宝永6年(1709)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。 庚申塔から350m程植栽のある歩道を進んでいくと、左手に僅か80m程の旧道痕があり、その中央辺りの左手筋角に宝永4年(1707)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。。 庚申塔が建つ左手筋を30m程入った左手の民家脇に天保16年(1845)の馬頭観音が建っている。

旧道口 須賀神社 清戸道碑 円光院
馬頭観音から街道に戻り、直ぐ先の信号で都道8号(目白通り)の右側に渡ると、直ぐ先に右手に入る旧道がある。 旧道はやや上り坂になり、直ぐ先で左の一方通行路へ進んでいく。先に進むと60m程先で下り坂となり、この坂の右手高台に須賀神社がある。須賀神社の創建年代等は不詳であるが、小さな社殿にはたくさんの神札が貼られ、社殿脇に明治17年(1884)の御神燈が2基建っている。 須賀神社へ上がる階段の左脇に清戸道碑と清戸道の案内板が建っている。案内板の内容は、これまでの説明とほぼ同じであるが、書きぶりがやや異なっている。 この旧道は清戸道碑の直ぐ先で都道8号(目白通り)に合流すると、間もなく右手に真言宗豊山派の南池山円光院貫井寺がある。円光院は、天正13年(1585)に没した開山・円長法師が密法修行の折、腰脚痛を患い、武川大鱗山の子聖権現を遥拝し平癒を祈願したところ快癒したため、ここに堂合を建て貫井寺と称したのが始まりという。境内には観音堂、大師堂、鐘楼などがあり、山門前には、六地蔵尊、馬頭観音、庚申塔などの石造物がある。

東高野山道道標 道楽橋 八幡神社 庚申塔・供養塔
円光院を出て120m程進むと右手の練馬貫井郵便局の先の右手筋入口に東高野山道道標が建っている。ここには2基の道標が建っており、左の標柱のような道標は寛政11年(1799)のもので、右の道標は同年に建立されたもので、表面に漢文が刻まれいる。 道標の先のY字路を左に進むと下り坂の道となり、下り切ったところで石神井川に架かる道楽橋に出る。道楽橋の名前の由来は不詳であるが、橋は石神井川にやや斜に架かっている。 道楽橋を渡り右手ニ本目の筋を入って行くと突き当りに練馬区高松の八幡神社がある。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、康平7年(1064)に源頼義が前九年の役の後、この地に戦勝に感謝して八幡宮を建てたのが始まりと云われている。境内には大山信仰の不動明王像、男女双体道祖神のほか、複数社を祀った境内社がある。、 街道に戻って進むと80m程先の信号交差点の左角に庚申塔と供養塔が建っている。庚申塔は、正徳5年(1715)に建立された一面六臂の青面金剛の庚申塔で、供養塔は、文化4年(1807)に建立された敷石供養塔である。

都道311号高架 旧道口 下の堂 谷原ガスタンク
庚申塔・敷石供養塔の直ぐ先で都道311号(環状8号線)の高架下をくぐっていく。 都道311号(環状8号線)を越えると直ぐ左手に民家の間を通る細い筋があるが、この道が清戸道の旧道である。 旧道を進んでいくと最初の十字路の右角地に愛染院墓地があり、この奥に大日如来と虚空蔵菩薩を祀った御堂がある。御堂の前には、寛文9年(1669)の南無阿弥陀仏名号碑、享保18年(1733)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。周囲には、供養塔と板碑、地蔵菩薩などが並んでいる。 下の堂の先2つ目の十字路を右に折れるのが旧道であるが、十字路の正面には谷原のガスタンクが見えている。この後十字路を右に折れた旧道は、谷原ガスタンクを左に見ながら回り込んでいく。

庚申塔 清戸道碑 道標 愛宕神社
十字路の先はやや坂道になっており、先ほど都道311号(環状8号線)を渡ったところで分かれた道に合流する。この合流した右手の植栽の中の祠に庚申塔があり、傍らに清戸道説明が建っている。 庚申塔の先で左手に谷原ガスタンクを見ながら回り込んでいくと都道8号(目白通り)に合流する。合流して間もなく右手の練馬区立総合体育館の前に清戸道碑と清戸道説明が建っている。説明内陽は、先ほど庚申塔の脇に建っていた説明と全く同じ内容である。 清戸道碑から90m程先の右手筋を入ると、かつての大山道(富士街道)へ出るが、この角地に道標が建っている。 街道に戻ると直ぐ先で谷原交差点となり、横断歩道橋を渡った左手のガスト谷原店の裏に愛宕神社がある。愛宕神社の創建年代等は不詳であるが、改修記念碑に大正12年3月とあるので、少なくともこれより前から鎮座していたようである。社殿覆屋に小さな本殿が鎮座し、傍らに朱い鳥居の稲荷神社がある。

分岐 八幡神社 庚申塔・清戸道碑 稲荷神社
谷原交差点から500m程先で目白通りから左に分岐するのが都道24号(大泉街道)の旧清戸道である。 旧道に入って700m程進んだ右手のスギドラッグストアの前に八幡神社がある。台座に乗った小さな社殿の隣には、御岳山大神・八海山大神・三笠山大神と刻まれた石碑が建っている。 八幡神社から170~80m先の右手マンションの前に庚申堂があり、3基の石造物がある。左から石燈籠、一面六臂の青面金剛の庚申塔、廻国供養塔である。庚申堂の脇の植栽の中には、清戸道碑と説明が建っている。 庚申塔・清戸道碑から右手2本目の筋を入って行くと突き当りに三原台の稲荷神社がある。稲荷神社は、享保・元文(1716-41)の頃、この地に新田を開拓した人々が鎮守として祀ったのが始まりと云われている。境内には、富士山浅間神社碑・光明霊神碑・御嶽大神碑・大元尊神碑などの石造物がある。

石神井神社
稲荷神社から街道に戻って180m程先の信号交差点で今回は終了し、最寄りの西武池袋線の石神井公園駅へ出る途中にある石神井神社へ寄った。石神井神社の創建年代等は不詳であるが、石神井の地名の由来となった石剣(石神)を祀っている。

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