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清戸道   (石神井~清瀬


令和5年11月1日(水)   ☀    石神井~清瀬    10.0㎞
前回の続きの三原台の稲荷神社の先は、ほぼ都道24号(大泉街道~したみち通り~練馬所沢線)を通り四面塔稲荷神社前まで行くが、その先はいくつかの道があったようではっきりしていないが、ここでは真っすぐ北に抜けて志木街道に突き当たる下清戸まで行くこととする。

清戸道 天祖稲荷神社 馬頭観音 榎本常三郎君之頌徳碑
前回の続きは三原台の稲荷神社から180m程先の信号交差点角の植栽がたくさんある旧家前から始める。この道は都道24号(大泉街道)である。 先に進んで右手の石神井警察署東大泉駐在所前から右に延びる東映通りに入り、右手2本目の路地を入ると天祖稲荷神社がある。天祖稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、狭い境内には稲荷神社遺跡碑、笠間稲荷神社新築記念碑が建っている。 天祖稲荷神社から東映通りに戻ると正面向いの路地口に明治44年(1911)の馬頭観世音碑が建っている。 街道に戻って300m程進むと右手の第3大新ビル前に榎本常三郎君之頌徳碑が建っている。榎本常三郎氏について詳細は不明であるが、旧大泉村の村長を務めた名士であったらしい。

妙延寺 分岐 北野神社 清戸道碑
榎本常三郎君之頌徳碑の直ぐ先右手に日蓮宗の倍光山妙延寺がある。妙延寺は、永禄11年(1568)に開山円乗院日宜上人、開基加藤作右衛門が開創したと伝わっている。境内には、南無妙法蓮華経題目碑、庚申塔、地蔵菩薩などの石造物がある。 妙延寺から程なく一方通行路の出口となる分岐があり、清戸道は一方通行路へ進む。都道24号は北野神社前でUターンして、北上する本線と、分岐に出て来る一方通行路となる。 一方通行路を進み桜並木で有名な大泉学園通りを渡ると左から回り込んできた都道24号の通り沿いに北野神社がある。北野神社の創建年代等は不詳であるが、江戸時代には既に存在しており、神仏混淆の当時は三十番神社と呼ばれていたという。明治時代になり神仏分離令により菅原道真公だけを祀り、北野神社になったという。 北野神社を出て東に隣接する練馬区立大泉小学校前を左折していくと、小学校校庭の金網越しに清戸道碑と清戸道説明板が建っている。説明板の内容は、これまでの説明と同じである。

中島橋 旧大泉村役場跡 本照寺 諏訪神社
大泉小学校前からやや下りの道を進み、その先で白子川に架かる中島橋を渡っていく。白子川は、南に位置する練馬区立大泉井頭公園に源を発し、下流で埼玉県と板橋区の境辺りを流れ新河岸川に合流している。 中島橋を渡って突き当りを左折するのが清戸道であるが、突き当りを右折すると練馬区立大泉中島公園があるが、ここは、かつて大泉役場があった場所である。ここには旧大泉村役場跡碑、平和記念之碑などが建っている。 街道に戻って西に向かうと間もなく右手に日蓮宗の了光山本照寺がある。本照寺は、天正10年(1582)、日勇上人が創建したと云われている。本堂は小榑村(おぐれむら)の役場として使われたこともあるという。境内には子育地蔵尊)、寛延3年(1750)・文政13年(1830)の南無妙法蓮華経題目塔などの石造物がある。 本照寺を出て次の右手筋を進むと突き当りに諏訪神社がある。諏訪神社の創建年代等は不詳であるが、江戸時代の 「新編武蔵風土記稿」 には、小榑村の鎮守三十番神と記されている。明治の神仏分離令の際、信州の諏訪神社から祭神を勧請し諏訪神社に改めたという。境内には神楽殿、太鼓庫屋のほか、稲荷神社、御嶽神社の境内社がある。

四面塔稲荷神社 産業道路 庚申塔 下り坂
街道に戻って道なりに都道24号(練馬所沢線)を800m程進むと交差点の左手に四面塔稲荷神社がある。四面塔稲荷神社の創建年代等は不詳であるが、江戸時代のこの辺りの地名 「堤村」 から堤稲荷神社、またかつてこの付近にあった四面の題目塔から 「四面塔稲荷神社」 と呼ばれているという。前の交差点は 「四面塔稲荷前」 という。境内には、境内社の御嶽神社、清戸道碑と清戸道説明板が建っている。 四面塔稲荷神社のところで二又に分岐しており、ここから先は色々なルートがあったという。左は都道24号(練馬所沢線)であり進んでいくと清瀬に出る。右は産業道路で今回の清戸道として北上していく。 産業道路をどんどん進んでいくと、左手の夢庵新座片山店の駐車場脇に小祠があり、一面六臂の青面金剛の庚申塔と正面に御嶽神社・阿夫利神社・榛名神社と刻まれた石祠が安置されている。 庚申塔の先は整備された道路で真っすぐ北西に向かっている下り坂である。

旧家 地蔵堂 庚申塔 馬喰橋
下り坂を進んでいくと産業道路は北上してしまうので、ファッションセンターしまむら片山店の角を左折して黒目川方面へ抜けることとした。しまむら片山店を左折すると右手に生垣が見事な旧家がある。この先は住宅地の中を抜けるが、所々に旧道らしき道が残っている。 住宅地の中を抜けて埼玉県道36号(保谷志木線)に出ると、すき家新座道場店の前に出るのでここを左折すると、右手のバス停脇に地蔵堂がある。地蔵堂には、宝永8年(1711)の地蔵菩薩立像が祀られている。台座には 「宝永八辛卯ニ月吉日 八幡山満行寺」 と刻まれている。 地蔵堂の直ぐ先の右手筋角に風化の進んだ庚申塔が建っている。文字ははっきりしないが、おおよそ右面に 「天保?申歳?右きよ戸道 左ところさわみち」、左面に 「武州新座郡片山貝沼村 左大山」 と刻まれている。これは道標を兼ねた庚申塔である。 庚申塔の先の右手筋を下ると黒目川に架かる馬喰橋がある。黒目川は、小平霊園に源を発し、東京都東久留米市、埼玉県新座市を流れ、下流の朝霞市で新河岸川に合流している。黒目川の名前の由来は諸説あるが、久留米が転じて黒目になったという。

庚申塔 上り坂 氷川神社 馬頭観音・庚申塔
馬喰橋から180m程先に進むと馬喰橋通りと黒目川通りのT字路交差点の左角に庚申塔が建っている。右は天明元年(1781)の一面六臂の青面金剛の庚申塔で、右面に 「武州新座郡石神村講中四拾六人」 と刻まれている。左の小さい石塔は風化が進んで全く不明である。 庚申塔の直ぐ右手はキャベツ畑が広がり、前方右手に堀ノ内病院見えると、その先は旧道らしい面影を残した上り坂の道となる。 坂道を上りきった右手に新座病院があり、その先で並木産業スマイルロードを横切り、新座市立石神小学校の前を回り込んで進んでいくと、その先の十字路左角に氷川神社がある。氷川神社の創建年代等は不詳であるが、古くから西堀村の鎮守として祀られており、野火止氷川神社が創建した承応年間(1652-55)から余り下らない時期に創建されたのではないかと言われている。 氷川神社から100m程先で分岐があり、清戸道は左に折れるが、右に90m程進むと野火止用水の脇に小祠があり、2基の馬頭観音と一面六臂の青面金剛の庚申塔が安置されている。

地蔵堂 野火止用水史跡公園 地蔵菩薩 旧道
馬頭観音・庚申塔の前の野火止用水に沿った水道道路を右に30m程行ったところに地蔵堂があり、台座に「法界萬霊等」 と刻まれた地蔵菩薩半跏像が祀られている。 地蔵堂から東に30m程行ったところに野火止用水史跡公園がある。写真のところは分流地点で、左が本流、右が平林寺堀である。公園内には、清流復活碑、野火止用水説明などがある。 街道に戻って分岐を左に500m程進み変則十字路に出ると、十字路の左手に小祠に安置された舟形光背を持つ地蔵菩薩立像が安置されている。足下にある香炉は昭和14年のものだが、地蔵尊は石質のため判読が難しい。 地蔵菩薩から北に進み、野火止用水が脇を流れる水道道路が交差する御成橋交差点を渡って、その先の旧道へ入って行く。

西堀三丁目憩いの森 清戸道終点 長命寺 全龍寺
扇御成橋交差点から250m先で西堀三丁目憩いの森公園の中を抜けていく。この先は畑の中を通り、清瀬ひまわりフェスティバル会場の脇を通って北上する。 畑の中の道を抜けると志木海道に突き当たる。この辺りの地名は下清戸であり、今回の清戸道の終点である。 志木海道に合流し清瀬駅へ向かうため280m程南西に進むと、右手に浄土宗の延年山転壽院長命寺がある。長命寺の創建年代等は不詳であるが、増上寺の法主を務めた感誉上人が創建したと云われている。境内には清瀬市指定有形文化財の薬師如来立像を安置する.薬師堂、鐘楼堂のほか、たくさんの石燈籠があり、墓地には徳川家ゆかりの墓石が数基ある。 長命寺から志木街道を900m程南西に進むと、左手に曹洞宗の安松山全龍寺がある。全龍寺は並木主水安松が開基となり、慶長元年(1596)に創建されたといわれる。本尊は薬師如来で、武蔵野三十三観音霊場第6番札所となっている。境内には本堂に祀られている一葉観音と同じ姿の石造物がある。

日枝神社水天宮 庚申塔ほか
全龍寺の志木街道を挟んだ斜向かいに日枝神社水天宮がある。日枝神社は、天正7年(1579)中島筑後守信尚が山王社として創建し、江戸時代には上中下清戸村の鎮守であったという。水天宮は明治期に勧請され奉斎されたという。境内には御嶽神社・白山社・金刀比羅神社・八雲神社・御霊社の境内社がある。 日枝神社水天宮から650m程先で志木街道から左に分岐する中央に石造物が並んでいる。石造物は一面六臂の青面金剛の庚申塔・廻国供養塔・馬頭観音である。

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