西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰めに抜ける道筋を 「清戸道」 といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。
 この坂の南に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再興による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。
 そもそも三代将軍家光が特に 「目白」 の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。「御府内備考」 には 「目白不動の脇なれば名とす」 とある。
 かつては江戸時代 「時の鐘」 の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。
 目白台の空を真北に渡る雁 稀に見る雁の四五十羽かも (窪田空穂)
(文京区教育委員会)

目白坂説明

緩やかに上る目白坂