この地蔵尊は、お堂右手にある 「子育地蔵尊」 の由来碑に記されているように、現在の南長崎交番(南長崎3-2-1)の手前、清戸道(目白通り)が練馬村と中新井村(練馬区)方面に分かれる二又地点に建っていた路傍の地蔵尊でした。
その台座正面に 「宝永7年10月12日 長崎村施主」、右側面に 「是より右川越うら道」 と彫られていることから、宝永7年(1710)に長崎村の有志が、村の平安と通行人の安全を祈願して建てた地蔵尊であったと思われます。
昭和13年、目白通りの拡幅工事のため、世話人12名の協議により現在地に移転しましたが、その頃には、すでに子育地蔵尊と呼ばれていたようです。移転前には落合村(新宿区)からも多くの人がお参りに来ており、移転の際の世話人にも名を連ねています。また戦前は、4の日の縁日に多くの露店が立ち並び、子供たちは夜になると燈明やお線香をあげて、大変な賑わいだったといいます。また盂蘭盆の日にも露店が立ち、おばあさんたちが念仏を唱える光景がみられました。
大正中期から昭和20年までは足立藤次郎氏が世話をしていましたが、戦後は足立俊雄氏(~昭和64年)、足立隆氏(平成元年~)が引き継いで世話人となり、また昭和52年から商店街の活性化を図って毎年8月に地蔵祭を行うなど、子育地蔵尊は昔も今も人々の心のよりどころとして、長崎地域の発展を見守り続けています。
(豊島区教育委員会)
子育地蔵尊碑
裏面に由来が刻まれている
地蔵堂
宝永7年(1710)の子育地蔵尊
目白通り二又子育地蔵尊説明