氷川八幡神社は、明治6年、当時箕田郷内に祀られていた氷川社、八幡社など20余社のお社を併合して、箕田郷の郷社として八幡社のあった現在地に祀られたものである。
 氷川社は、承平8年(938)清和天皇の孫である源経基が武蔵の国の国介(くにのすけ)になってこの地に赴任して統治した際、大宮の氷川神社から勧請したと伝えられており、中宿地内に祀られていた。
 八幡社は、源経基の臣下であった源仕(つかう)が経基と相談して、天慶4年(941)現在地に京都の石清水八幡宮から勧請したもので、仕の孫の渡辺綱によって神田(八幡田の地名あり)が寄進され再興されたものである。
 仕は、嵯峨天皇のひ孫にあたり、平将門の乱や藤原純友の乱の平定に武功をあげ、武蔵の国の国守に任ぜられてこの地に住んだものであり、綱は、丹波の大江山に住む鬼を退治した逸話で有名な武将である。
 ともに武勇に優れ、戦いの折はこの八幡社に祈願して武勲をたてたので、八幡社は後世、戦いの神様として近隣の崇敬を集めた。

 箕田は武蔵武士発祥の地で、1000年程前の平安時代に多くの優れた武人が住んでこの地方を開発経営した。
 源経基(六孫王清和当地方を治め源氏繁栄の礎を築いた。その館跡は大間の城山にあったと伝えられ、土塁・物見台跡などが見られる(県史跡)。源仕(つこう)(嵯峨源氏)は箕田に住んだので箕田氏と称し、知勇兼備よく経基を助けて大功があった。その孫綱(渡辺綱)は頼光四天王の随一として剛勇の誉れが高かった。箕田氏三代(仕・宛・綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝えられている(県史跡)。
 箕田碑はこの歴史を永く伝えようとしたものであり、指月の撰文、維碩の筆による碑文がある。裏の碑文は約20年後、安永7年(1778)にい刻まれた和文草体の碑文である。
 初めに渡辺綱の辞世
   世を経ても わけこし草のゆかりあらば
      あとをたづねよ むさしののはら
を掲げ、次に芭蕉・鳥酔の句を記して源経基・源仕・渡辺綱らの文武の誉れをしのんでいる。
 鳥酔の門人が加舎白雄(志良雄坊)であり、白雄の門人が当地の桃源庵文郷である。たまたま白雄が文郷を尋ねて滞在した折に刻んだものと思われる。
 (鴻巣市教育委員会)

箕田氷川八幡神社由緒

箕田碑

氷川八幡神社拝殿

箕田碑説明