南無阿弥陀仏の石塔・石仏
浄念寺由緒
浄念寺は正式名称を清水山報恩院浄念寺と申します。
室町時代後期の天文15年(1546)、下総国小金(現在の千葉県松戸市)東漸寺の團誉桂全善壽上人が浄念寺を開創いたしました。江戸時代後期にまとめられた
「新編武蔵風土記稿」 に、「往古の開基を朗海と云、貞治7年正月朔日寂せり則境内に其の人の古碑あり、因りて思ふに朗海の開基せしは纔(わずか)の庵室なりしを後、團誉桂全善壽上人一寺を取建しによりこれを開山と云ふなるべし」
と記されているように、室町時代初期(1360頃)に朗海上人が桶川のこの地に建てた修行のための庵をもとに、戦国時代に團誉桂全善壽上人が寺院として整えたのが浄念寺の始りであります。
浄念寺は開創された頃より、桶川宿と深い関係があったと考えられます。江戸時代初頭には、桶川宿を治めた西尾隠岐守吉次によって、地蔵菩薩像(本堂内に現存)・薬師如来像(薬師如来像が納められていた石塔のみ現存)が奉納されたことからも、このことが伺えます。
阿弥陀さまに対する信仰が盛んであっただけでなく、「足立新秩父観音霊場」 の札所として、観音さまへの信仰も篤いものでありました。また明治以降は、桶川不動尊の御所としての信仰も集めております。また、昔の人たちの信仰の様子は、現在でも境内地に残っている様々な石塔、仏像からうかがい知ることができます。
なお現在の本堂は平成16年に新築されました。
浄念寺のシンボルとというべきこの朱塗りの仁王門は、「新編武蔵風土記稿」 に 「仁王門は楼門なり楼下に仁王を安し、上に鐘を懸く、元禄14年の銘文あり」
と記されてあるように、元禄14年(1701)に再建されたものであります。
この仁王門の上には梵鐘が懸かっています。浄念寺のかつての梵鐘は寛保元年(1741)に鋳造されたもので、浄念寺のご詠歌に 「浄念寺鐘の響きや法の音子安の誓い深き桶川」
と詠われているように、その美しい音色は、人々に時を知らせるために桶川宿の隅々にまで鳴り響いたといわれています。残念ながら、この梵鐘は第二次大戦の際、求めに応じて供出され現存しておりません。現在、仁王門に懸かっている梵鐘は、昭和40年に鋳造されたものであります。
仁王門の楼下にいらっしゃるのが、二体の仁王像であります。明和5年(1768)に開眼されました。口を開けてるほうが阿形像、口を閉じているほうが吽形像といい、外から侵入しようとする法敵から仏法を守護しております。
仁王像
板石塔婆
板石塔婆とは、主に緑泥片石を利用した石製の塔婆で、鎌倉時代から江戸時代初頭にかけて死者の追善供養や自らの極楽浄土を願って造立されたものであります。
浄念寺の板石塔婆は、最も古いものは正和4年(1315)、最も新しいものは天文19年(1550)のものであります。その中の一つが、浄念寺の礎となった庵を作り修行に励んだ、朗海上人を供養するための板石塔婆であります。(中央、一番大きな板石塔婆)