平安時代も9世紀後半頃になると地方の政治が乱れ始め、武蔵国では群盗がはびこり、治安が悪化してきました。
 西暦919年、前の武蔵権介(ごんのすけ)の任にあった源仕(つこう)は、官物を奪って官舎を焼き払い、国府を襲う事件を起こしました。源仕は昇(嵯峨天皇の孫)の子で、任期満了後も帰京せず箕田に土着して豪族となり、その子充(宛)は箕田源氏の祖と言われています。著名な説話集 「今昔物語集」 には、箕田に居を構えていた源充と、村岡(熊谷市)に居を構えていた平良文とが、合戦におよんだことが述べられたいます。源頼光の四天王として知られている渡辺綱は充の子にあたります。
 このほかにも、仕が勧請したと伝えられる八幡社、綱ゆかりの寺院など、箕田には源氏にちなむ伝承が数多く残されています。
 やがて、江戸時代になると五街道の一つである中山道が、現在の鴻巣市域をほぼ南北に通り、中山道は東海道と共に江戸と京都・大阪とを結ぶ重要な幹線路であったから、整備も行き届いていました。中山道を往来する主な通行は、参勤交代のために隊列を組んだ大名行列や公用の武士、荷物を運ぶ人足や馬、寺社参詣の旅人などがありました。
 朝、江戸を出発した旅人は、その日の夕方には鴻巣宿に着き、旅籠屋に宿を取って、翌朝、再び中山道を西に向かって旅立ちます。鴻巣宿からほぼ一里ほど行くと、箕田村の追分あたりに着き、ひと休みすることもあります。追分からは、北に向って三ツ木・川面を経て忍(行田市)や舘林(群馬県)城下へ向かう道が分かれるので、ここを箕田村字追分というようになりました。
 鴻巣宿から熊谷宿までは4里6丁40間(約16㎞)に長い距離があり、途中の箕田・
吹上・久下村の三ヶ所には立場と称される休憩所がありました。立場とは立場茶屋ともいい宿場と宿場との間にあって、そこで旅人が草鞋を買い替えたり、お茶を飲み団子を食べるなど、休憩するところです。箕田の追分には立場があったので、旅人の休憩はもちろん、近村から寺社参詣などで旅立つ者を見送る人々も、ここでしばしの別れを惜しんだのです。
 上の図は19世紀初頭、江戸幕府によって作成された中山道絵図のうち、宮前・箕田・中井村あたりの部分図です。道に面する家並みや寺院、中山道から分かれる道などが描かれ、当時の中山道とその沿道のようすを窺い知ることができます。
 左上の図は江戸時代の後期、根本山(群馬県桐生市)に参詣する人々のために発行された旅行案内の一場面で、箕田の追分が描写されています。そこには中山道と舘林道の道しるべ(道標)や富士屋という立場、さらに追分に造立されている地蔵菩薩などを見ることができます。左下の図は、明治元年に合祀された氷川八幡神社を描いたもので、境には渡辺社や箕田源氏の事跡を刻んだ箕田碑なども見えます。

中山道碑

箕田源氏ゆかりの地の説明版

庚申塔