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東海道   (大津~京都三条


平成30年3月12日(月)   ☀    大津~京都三条大橋    10.7㎞
本日は、H27.3.2に日本橋をスタートしてから32日目で京都三条大橋までの512㎞を完歩することとなる。中仙道(537㎞)は35日かかっているので、ほぼ同じペースで歩いたことになる。大津から先も一度歩いている道であり、寄り道もほぼ同じところを見ていく感じになる。

関蝉丸神社 逢坂登り口 安養寺 旧逢坂山隧道
昨日最後に訪れた妙光寺の先に、関蝉丸神社がある。この神社の参道も京阪電鉄京津線が横断している。
関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ)の祖神ともいわれている。蝉丸は醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられている。境内には、時雨燈籠ほか数基の歌碑・句碑がある。
街道に戻って京阪電鉄京津線を渡ると、中央の山に向かって登坂となる。 京阪電鉄京津線の踏切を渡ると右手に浄土真宗本願寺派の逢坂山安養寺がある。
安養寺は貞観4年(862)智証大師による開基であり、本堂には重要文化財の阿弥陀如来座像が安置されている。
山門前には、蓮如上人旧跡碑、逢坂解説碑などが建っている。
安養寺の先の右手に旧逢坂山隧道東口がある。
この隧道は、日本人の技術者・技能者が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道である。明治11年(1878)10月東口から、また同年12月西口から、それぞれ掘削を進めて約1年8か月の歳月を費やして、明治13年(1880)6月に竣工したもので、大正10年8月線路変更により廃線となるまで東海道本線の下り線として使用された。

念仏寺 名神高速道路 関蝉丸神社上社 弘法大師堂
旧逢坂山隧道の先の逢坂一丁目交差点で国道1号線に合流する。
この先は右側に歩道が無いので、ここで左側に渡ると京阪電鉄線路を超えた段上に浄土宗の念仏寺がある。
先に進むと名神高速道路の上下線二つの高架下をくぐっていく。 名神高速道路の高架下を過ぎると右手に関蝉丸神社上社がある。
関蝉丸神社上社と下社は、社伝によれば平安時代、嵯峨天皇(809-23)のときに猿田彦・豊玉姫をまつり、円融天皇(969-984)の代に蝉丸を合祀したと云われている。社殿は国道1号線に面した斜面にあるが、ここは横断歩道があり、押しボタン式信号も設置されている。
関蝉丸神社上社の前の信号を渡って先に進むと、右カーブの手前右側に弘法大師堂がある。
ここは車が多く往来し、カーブで見えないこともあり、道路を渡るのに注意が必要である。
中央に弘法堂があり、中には小さな弘法大師像が安置され、脇の不動堂には阿弥陀如来像と不動明王像などの石仏が安置されている。

逢坂の関記念公園 地蔵堂 老舗 「かねよ」 蝉丸神社
逢坂を上り切った右手に平成21年(2009)に完成した逢坂の関記念公園がある。
逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)の一つであり、弘仁元年(810)以降重要な役割を果たしていた。逢坂の関の位置については、現在の関蝉丸神社上社から関寺の周辺にあったと言われているが、詳細は不明である。
ここには逢坂山関址碑・逢坂常夜燈・歌碑などがある。
逢坂の関記念公園の斜向かいに地蔵堂があり、一体の地蔵尊が安置されている。 地蔵堂の先に明治5年(1872)創業の老舗 「かねよ」 という 「うなぎ屋」 がある。
ここには百人一首の三条右大臣に詠まれた名木 「逢坂山のさねかづら」 の現存する庭園があるという。
老舗 「かねよ」 の直ぐ先右手に蝉丸神社がある。
蝉丸神社は、天慶9年(946)蝉丸を主神として祠られ、その後、万治3年(1660)現在の社が建立され街道の守護神として猿田彦命と豊玉姫命を合祀したと言われている。
境内には車石が保存され、境内社の皇大神宮社がある。

道標 元祖走井餅本家 大谷駅 国道1号線
街道に戻って坂道を下ると、左手の民家の植栽の中に道標が建っている。
道標には、「右 京三条」、「左 伏見」 と刻まれている。
道標の直ぐ先の民家の前には、元祖走井餅本家の標柱が建っている。
この走井餅は、大津の名物となっているが、ここに店舗はない。
直ぐ先に京阪電鉄京津線の大谷駅があり、改札の手前に大谷町の由来碑が建っている。
これによると、かつてこの辺りが深い谷間に挟まれていたことから名付けられた町名で、東海道沿いのこの付近では、江戸時代、大津絵や針など土産物が売られていた。特に大津算盤は、近くの旧今一里町(現大谷町)、片岡庄兵衛の創始と言われている。
大谷駅を過ぎると街道は、国道1号線に突き当たり、京阪電鉄京津線と国道1号線を跨ぐ横断歩道橋で反対側へ出る。

片岡庄兵衛碑 月心寺(走井居) 山間の道 摂取院
先に進むと左手の民家前に大津算盤の始路・片岡庄兵衛解説碑が建っている。
江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長17年(1612)、片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝わる。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお、昭和初期まで、この碑の場所にも同家の子孫が住んでいた。
片岡庄兵衛碑の直ぐ先に月心寺がある。
月心寺はかつては走井の茶屋として繁盛していたが、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったという。
月心寺の庭園に有る井戸は、歌川広重が描いた東海道五十三次大津宿走井茶屋に描かれた走井の水であると言われている。境内には入れないが、街道から明治天皇駐輦之碑などが見える。
街道はしばらく山間の道を進むが、隣には車の往来の激しい国道1号線が走り、その隣に京阪電鉄京津線と名神高速道路の高架が並行している。 街道を進み名神高速道路の高架をくぐると街道は左の旧道に入るが、右手の国道1号線と京阪電鉄京津線を渡った段上に浄土宗の光明山摂取院がある。
摂取院は天正2年(1574)道春による開基であり、境内には大小5つの地蔵堂がある。また東海道と京街道の分岐点である追分町髭茶屋にあった道標が、中程で繋ぎ補修された状態で保存されている。

地蔵堂 佛立寺 鍾軌像 追分
街道に戻ると旧道入口の左手に地蔵堂があり、正面の香炉には大日如来と刻まれている。
御堂内には、いくつかの地蔵尊や石仏があり、中央に大日如来と思われる石仏がある。また御堂の前には車石が保存されている。
地蔵堂の直ぐ先右手に本門佛立宗の長松山佛立寺がある。
佛立寺は、安政6年(1859年)に開創された本門佛立宗最初の寺院で、初転法輪道場と呼ばれ、また、慶応4年(1868)開導聖人初の法難にちなみ法難地道場とも称される。
境内には、開導聖人像・今大路旧邸・慶應2年の常夜燈などがある。
先に進むと街道は国道1号線よりも高いところを通り、その左手民家の屋根に鍾軌像が祀られている。
鍾軌像は各地で見られるが、特に近畿~中部地方に多く見られ、江戸時代末期ころから魔除けとして屋根に置かれた。
鍾軌像の祀られた家から程なく、東海道と京街道(
東海道57次とも言われる)の追分があり、中央に道標が建っている。
この道標は昭和29年3月再建とあり、摂取院にあった道標のレプリカである。
隣には明和3年(1766)の蓮如上人御塚の道標が建っている。いずれの道標も下部は鉄板で包まれて保護されている。

追分町標柱 閑栖寺 地蔵堂 牛尾山道標
追分道標を右に進むと追分町自治会館前に追分町標柱が建っており、「この地は江戸時代、東海道と伏見街道(奈良街道)の分岐点に当たっていました。追分の名は、このような街道の分かれ道で、馬子が馬を追い分けることからきたものです。なお、江戸時代、付近の街道沿いには、鬚茶屋町、南北追分町の三か町が並んでいました。」 と記されている。 追分町標柱の直ぐ先右手に真宗大谷派の放光山閑栖寺がある。
山門前には東海道の道標があり、境内には入れなかったが、山門から車石や道標、そして和風句碑が見えた。
閑栖寺の先の国道1号線と西大津バイパスの合流地点の脇に地蔵堂と旧藤尾小学校跡地碑が建っている。
明治8 年(1875)、この地に創立された古関学校は、明治19年 (1886)に大津第二教場となり、その後、明治25 年(1892)大津藤尾尋常小学校(藤尾小学校)となり、後に大津市茶戸町(現在地)に移転している。
地蔵堂の先左手筋角に小さな道標が建っている。
道標には 「牛尾山」 と刻まれており、ここから南へ4~5㎞ほどのところにある牛尾山法厳寺を指している。
法厳寺は、牛尾山の中腹にある寺院で創建は不詳であるが、奈良時代の創建と伝わっており、かつては清水寺の奥の院と言われ、通称を牛尾観音と呼ばれている。

坪庭の家 東海道案内 車石 小関越道標
牛尾山道標の路地を挟んだ隣の家は焼塀の蔵と主屋の間に坪庭があり、蔵の塀には 「煌めき大津賞・都市景観部門受賞」 と記載がある。 直ぐ先で国道1号線に突き当たり、街道は分断されるが、横断するには手前の横断歩道橋を渡ることとなる。
階段脇に小さな案内があり、横断歩道橋を渡ったら50m先の三叉路を右に進んでくださいと記されている。
横断歩道橋を渡り50m先の三叉路を右に入ると、直ぐ左手に車石が置かれており、解説板も建っている。 車石から程なく、右手筋角に小関越道標が建っている。
道標には 「三井寺観音道・小関越・願諸来者入重玄門・文政五季十一月建立常飛脚問屋」 と刻まれている。傍らには明治36年(1903)の常夜燈が建っている。 

地蔵堂 善福寺 京都市 地蔵堂
小関越道標の筋を5mほど入ったところに地蔵堂があり、可愛い前掛けをつけた地蔵尊が4基祀られている。 小関越道標の直ぐ先右手に善福寺の寺標があり、寺標の先へ入って行くと右手に真宗大谷派の逢西山善福寺がある。
山門は閉ざされて境内には入れなかったが、山門から親鸞聖人像が見えていた。
善福寺の先で滋賀県大津市から京都市へ入っていく。
標識の建っているところに細い水路があり、ここが県境になっている。
先に進むと街道を横切る四宮川の脇に地蔵堂があり、一体の地蔵尊が祀られている。
この先、いたるところにこのような地蔵堂が見られる。

徳林庵 十禅寺 圓光寺 諸羽神社
四宮川を渡ると右手に臨済宗南禅寺派の徳林庵がある。南禅寺の雲英禅師がその祖と言われ、仁明天皇の第四の宮人康親王の菩提を弔うために草創したという。
徳林庵には南北朝時代建立の人康親王と蝉丸の供養塔があり、この六角堂には小野篁柞で1157年に、後白河天皇の勅命により京都の主要街道に六ヵ所に設置された地蔵のうちの一体が安置されている。
徳林庵の脇を入って行くと、京阪電鉄京津線を渡った突当りに十禅寺がある。
十禅寺は聖護院門跡の末寺で、平安時代の859年、仁明天皇の第四の宮人康親王を開山として創建され、この辺りが 「四の宮」 と呼ばれる所以となったと言われている。
境内の東北隅の樹の下に開山人康親王の廟がある。
街道に戻って進むと右手に圓光寺寺標があり、参道を入って行くと京阪電鉄京津線を渡った突当りに、山門が長屋門の真宗大谷派の圓光寺がある。
長屋門の山門は閉ざされており境内に入れなかったが、山門からは蔡華堂の扁額の掛かる御堂が見えた。
圓光寺寺標の一軒隣に諸羽神社鳥居がある。
鳥居の先を進むと圓光寺の脇を通って東海道本線の高架を潜った先に諸羽神社がある。
諸羽神社は、貞観4年(862)清和天皇の勅により社殿が造営され、両羽大明神と称されたが、その後、諸羽神社と改称されたという。
境内には、仁明天皇の第四の宮である人康親王の山荘跡にあったという琵琶石が保存されている。

来迎寺 道標 旧東海道解説 山科別院道標
街道に戻ると右手の安朱保育園の隣に、浄土宗西山禅林寺派の九品山来迎寺がある。
来迎寺は、鎌倉時代の嘉禄3年(1227)西山国師により建立され、元亀元年(1570)織田信長と戦った浅井長政の兵に焼かれ、寛永8年(1631)に再建された。
安朱保育園は、来迎寺の敷地内にあるようである。
来迎寺の直ぐ先の右手エスタシオン・デ・山科三品の前に道標が建っており、「東海道 大津札の辻まで一里半 京三条はし迄一里半」 と刻まれている。
傍らには車石があり、入口奥には 「御菓子司三品老舗」 の看板があり、昔は御菓子屋さんだったようである。
直ぐ先の山科駅前交差点の右角に、旧東海道の解説板が建っている。
この地を東西に貫く街道は、古代から都と東国を結ぶ日本の大動脈であった・・といった一般的な旧東海道の解説が記されている。
山科駅前交差点を右折して東海道山科駅前に行くと、京阪電鉄京津線の脇に山科別院道標が建っている。
道標には、「本願寺山科両別院 是よりひだり六丁」 と刻まれており、ここから南へ六丁(約600m)進むことになる。本願寺には西と東の2つの本院があり、山科両別院とはそれぞれに所属する別院のことを指すそうである。

旧東海道碑 明治天皇碑 安祥寺寺標 大津畑橋
街道に戻って、山科駅前交差点を渡ると、右手のホテルプラトインシティ京都山科の植栽の中に旧東海道碑が建っている。 旧東海道碑の直ぐ隣に明治天皇御遺蹟碑が建っている。
この石碑は、明治元年(1868)9月、明治天皇東幸の際、同2年3月の御還幸及び同11年10月の御還幸の3回に亘って、古く戦国時代より東海道の茶店、宿場又本陣として洛東山科の名刹毘沙門堂御領地内にあった 「奴茶屋」に御注輦されたことを記念して建立された。
明治天皇碑から程なく、街道右手に高野山真言宗の吉祥山安祥寺寺標がある。安祥寺は嘉祥元年(848)仁明天皇女御で文徳天皇の母・藤原順子の発願により入唐僧・恵運によって創建された。寺標からは東海道本線を越えた山裾に位置している。
寺標の直ぐ奥に地蔵堂があり、大日如来と地蔵尊が安置されている。
安祥寺寺標の直ぐ先の十字路に南北に流れる安祥寺川に架かる大津畑橋がある。
安祥寺川は、山科区安朱毘沙門堂町の北部山中に源を発し、毘沙門堂前から南下し、山科盆地北端の琵琶湖疎水とクロスして、下流で山科川に合流している。

愛宕常夜燈 当麻寺 五条別れ道標 阿弥陀寺
大津畑橋を渡ると右手の表具店の前に愛宕常夜燈が建っており、表具店の向かいには地蔵堂があり、二体の地蔵尊が祀られている。 愛宕常夜燈から程なく右手に浄土宗西山禅寺派の弘誓山當麻寺がある。
當麻寺は、鎌倉時代の天福2年(1234)石山上人による開基で天明3年(1783)に焼失し、同年に再建された。
山門は閉ざされ境内に入れなかったが、山門から七重塔・やすらぎ観音が見える。
街道を進むと左手のクリーニング丸江の先の路地角に五条別れ道標が建っている。
ここは三条通りと五条大橋の追分で、道標には 「左ハ五条橋 ひがしにし六条大佛今ぐ満きよみず道 右ハ三条通」 と刻まれている。
五条別れ道標の直ぐ先にある寺西幼稚園の標柱の右手路地を入って行くと、浄土宗の吉祥山無量寿院阿弥陀寺がある。
阿弥陀寺は奈良時代の僧行基による開基といわれ、ご本尊の阿弥陀如来像は源信の作と伝えられ、平重盛の念持仏と言われている。
境内には、子授け地蔵尊・百八体地蔵尊・弁財天社などがある。

長屋門 東海道本線高架 天智天皇陵 旧道口
緩やかにカーブを描く下りの道を進むと、右手に鍾馗像のある黒塀の美しい家や長屋門の旧家がある。
鐘馗像のある家の向かいには、二体の地蔵尊が祀られた地蔵堂がある。
直ぐ先で、三条通(府道143号線)に合流し、東海道本線の高架下をくぐっていく。 東海道本線高架をくぐると、右手に天智天皇陵の参道が北に向かって延びている。
樹木が生い茂る参道を400mほど入ると、京都で最古の天皇陵である山科陵と呼ばれる八角墳(上円下方墳)がある。
参道脇には、日本最初の時計を考案した天皇の徳を称えて日時計が建てられている。
天智天皇陵参道口の斜向かいに、旧道口があり、塀に黄色い旧東海道の標示がある。
旧道口の手前は、陵ヶ岡みどりの径入口で、冠木門のモニュメントが建てられており、傍らには地蔵堂がある。

旧東海道標 亀の水不動尊 大乗寺 光照寺
先に進むと狭い路地となるが、要所要所に黄色い旧東海道標示があるので、これに従って進んでいく。 先に進んで旧道が急な登坂になると、左手に幟が建つ亀の水不動尊がある。
前回(H27.11.22)来たときは、荒れた状態で見ることは出来なかったが、今回は2基の道標が建つ手前の空き地を回り込んで見ることが出来た。
亀の水不動尊は、元文3年(1738)木食正禅養阿上人が道普請の際、人足寄場として建てた梅香庵跡である。
亀の水不動尊の直ぐ先に大乗寺の寺標があり、参道の石段を上がって行くとに小さな建物の大乗寺がある。
大乗寺は、約300年前に京都七本松に建立され、その後、禅宗系の寺から法華宗の寺に改宗されたと伝えられている。境内には、酔芙蓉が茂り、小倉百人一首の歌碑もあり、酔芙蓉の寺とも呼ばれている。
大乗寺の先に街道から左へ上る石段があり、石段脇には圓光大師御旧跡碑が建っている。
この階段を上り詰めると、木曽義仲軍が京へ乱入した時に、法然上人が避難されたという頂後山光照寺がある。
境内には小さな庭園があり、善光寺如来や石仏が置かれている。

地蔵堂 街道家並み 旧東海道碑 車石と荷車
光照寺から街道に戻ると、右手に地蔵堂があり、この先府道143号線の三条通に合流するまでに6つの地蔵堂がある。
いずれも大日如来と思われる石仏や地蔵尊が安置されている。
地蔵堂が多くみられる街道に家屋は建っているが、その数軒は明らかに空き家である。 先に進んで、右手下方に三条通(府道143号線)が見える辺りに、旧東海道碑が建っている。 右下から来る三条通(府道143号線)に合流すると、左手に荷車のモニュメントと車石が置かれた広場がある。
この広場は、廃線となった京阪電鉄京津線の軌道敷を利用して設置されたものである。

粟田口刑場跡 地蔵堂 蹴上浄水場 地蔵堂
車石の広場の先の左手段上に、粟田口刑場跡があり、石碑が2基建っている。
粟田口刑場は、江戸時代より前から刑場として機能していたとされ、罪人総数約15000人ほどが処刑されたと云われている。
天王山の戦いに敗れて殺された明智光秀の遺体が晒されたところであり、南無妙法蓮華経題目碑と萬霊供養塔が建っており、近くに粟田口刑場解説も建っている。
粟田口刑場跡を過ぎると、東山ドライブウェイの高架手前右手に地蔵堂がある。
地蔵堂の中央には地蔵菩薩立像があり、足元にたくさんの地蔵尊が安置されている。
東山ドライブウェイの高架下を過ぎて、下り坂にさしかかると、左手にレンガ造りの建物の蹴上浄水場がある。
蹴上浄水場は、日本最初の急速ろ過方式の浄水場として、明治45年(1912)、京都で初めて給水を開始した施設である。
蹴上浄水場入口の斜向かいにあるアイリス化成㈱の脇に地蔵堂があり、地蔵菩薩と大日如来が並んで安置され、その周囲にたくさんの石仏が並んでいる。

日向大神宮 安養寺 義経大日如来 蹴上疎水l公園
左手に蹴上浄水場を見ながら下って行くと、右手に日向大神宮社標と安養寺寺標が建っている。参道を進むと大神宮橋の手前に2基の常夜燈があり、参道を15分ほど登ると手水舎の前に出て、拝殿・外宮・内宮と続いている。
日向大神宮は、第23代顕宗天皇の御代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移して創建されたと伝えられている。境内奥には、天岩戸の戸隠神社があり、神田稲荷神社の裏から山道を登ると伊勢神宮遥拝所がある。
日向大神宮参道途中の左手に西山浄土宗の青龍山安養寺がある。
安養寺は、天台宗の寺院として円仁により開かれたが、天正18年(1590)に道観により浄土宗に改宗されたという。
境内には不動堂があり、東巌倉不動明王が祀られている。
日向大神宮橋の参道を戻ると、蹴上疎水公園の一角に義経大日如来が安置されている。
義経が奥州平泉へ向かう途中、鞍馬を出て日ノ岡峠の清水に差し掛かった時、すれ違う平家武者・関原与一重治とその従者9人の馬が泥水を跳ね上げ、義経の直垂を汚してしまった。これに激昂した義経が9人を切り殺し、それを哀れんだ村人が弔いの石仏9体祀ったもので、そのうちの一体がここに祀られている。
琵琶湖疎水は、明治時代初期に琵琶湖の水を京都へ引き、琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防災などに利用して京都の産業振興を図るために開削された。途中の蹴上船溜から南禅寺船溜までは落差が36mあるため、この間はインクラインという傾斜鉄道を使用した。
公園内には、写真のインクライン(傾斜鉄道)が復元され、疎水工事の総括責任者・田辺朔郎像、琵琶湖疎水工事殉難者碑が建っている。

蹴上発電所 地蔵堂 道標 佛光寺本廟
街道に戻ると、蹴上交差点のY字路の中央下に煉瓦造りの第二期蹴上発電所の建物が保存されている。
明治24年(1891)に造られた日本最初の水力発電所で、当初は80キロワットのエジソン式直流発電機2台が設置されていたが、現在は発電機能は廃止されている。第三期蹴上発電所は、関西電力蹴上発電所として発電が行われている。
蹴上発電所を過ぎると、右手路地に地蔵堂があり、目鼻を色付けされた地蔵尊が安置されている。 地蔵堂の先の信号交差点の右角に道標があり、「三条通大津道 左動物園黒谷真如堂道」 と刻まれている。
この道標の道路を挟んだ向かいにも地蔵堂があり、3基の地蔵尊が祀られている。
三条通左手のウェスティン都ホテルの隣に真宗佛光寺派の本山佛光寺本廟がある。
佛光寺は、越後に流罪となった親鸞聖人が赦免後の翌年建暦2年(1212)に京都に帰られ、草庵を結んだのが草創と伝えられている。
境内には親鸞聖人の御廟所があり、傍らに刀匠の三条小鍛冶宗近之古跡碑が建っている。

合槌稲荷神社 粟田神社 平安神宮 粟田口
佛光寺から三条通に戻ると右手に合槌稲荷神社の赤い鳥居がある。
鳥居をくぐって細い参道を入って行くと、民家の前を枡形に進んだ先に小さな社殿がある。
合槌稲荷神社は、刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂と云われ、その邸宅は三条通の南側粟田口にあったと云われている。
合槌稲荷神社の先左手に粟田神社の参道口があり一の鳥居が建っている。
粟田神社は、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として創建したと云われている。
境内には北向稲荷神社・出世恵美須神社の摂社、大神宮・鍛冶神社・朝日天満宮・吉兵衛神社・太郎兵衛神社の末社などがある。
街道に戻ると、直ぐ先の三条神宮道信号交差点の右筋奥に赤い鳥居の平安神宮がある。
平安神宮は、平安遷都1100年を記念して、明治28年(1895)に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建された。その後、皇紀2600年にあたる昭和15年(1940)には、平安京有終の天皇である孝明天皇も合祀された。
社殿は、平安京の中心施設である朝堂院をおよそ八分の五に縮小し、神門・拝殿なども厳密に復元され、国指定重要文化財となっている
街道に戻って三条神宮道信号交差点を左折すると、左手に粟田口碑と解説がある。
粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲に渡る地名である。

青蓮院門跡 坂本龍馬・お龍結婚式場跡 白川橋道標 明智光秀墳
粟田口碑の右手に、粟田御所と呼ばれた青蓮院門跡がある。青蓮院門跡は、天台宗総本山比叡山延暦寺の山門跡の一つとして古くから知られている。
天台宗の祖最澄が、比叡山延暦寺を開くにあたって、山頂に僧侶の住坊をいくつも作ったが、その一つの青蓮坊が起源であると言われている。
長屋門から四脚門までの築地の上には、親鸞上人が植えたと伝わる四本のクスノキがある。
街道に戻って三条神宮信号交差点を先に進むと、街道左手のパークウォーク京都東山というマンションの前に坂本龍馬・お龍 「結婚式場」 跡碑が建っている。
碑の隣には解説碑が有り、「当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は 「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。」 と刻まれている。
直ぐ先の白川に架かる白川橋の袂に、三条白川橋道標が建っている。
この道標は、延宝6年(1678)建立で市内に現存する最古のものである。
白川橋道標を左手に川沿いを進むと、下流一つ目の橋のところに 「東梅宮幷明智光秀墳」 と刻まれた弘化2年(1845)の道標があり、ここを左折すると明智光秀の塚がある。
本能寺の変の後、天王山の戦いで羽柴秀吉に敗れた光秀は、近江へ逃れる途中農民に襲われ自刃し、その首を家来がこの地に埋めたと伝えられている。

大将軍神社 池田屋事変殉難碑 高山彦九郎正之像 三条大橋
白川橋を渡ると左手に大将軍神社がある。
大将軍神社は、素戔嗚尊を主祭神とし、藤原兼家を配祀しており、延暦13年(794)桓武天皇が平安京造営の際、大内裏鎮護のために都の四方に祭祀した大将軍神社のうち東南隅の一つである。
境内には白龍弁財天・天満宮などの境内社のほか、推定樹齢800年の御神木のイチョウがある。
街道に戻って進み、三条京阪信号を左折すると、駐車場の向かいに池田屋事変殉難志士墓所跡碑が建っている。
碑には、次のように刻まれている。
元治元年(1864)6月5日、池田屋で新選組隊士に襲われ斃れた志士たちは、浄土宗法輪山三縁寺墓地に葬られたが、昭和54年10月、岩倉花園町に再葬された。三縁寺への行き方、叡山電鉄「八幡前」下車、北東へ徒歩15分、京都バス「花園町」下車、東へ徒歩3分。
三条大橋の手前の交差点左角に土下座して御所を遥拝する高山彦九郎正之像がある。
高山彦九郎は、群馬県の出身で18歳の時以来、前後5回上洛したが、京都に出入りする折には、京都御所に向かって拝礼した。
吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。
三条大橋は鴨川に架かる橋で、東海道と中山道の終点である。
橋が架けられた時期は明らかではないが、豊臣秀吉の命により改修された記録があり、欄干には当時の擬宝珠も一部残っている。
また橋の西詰から2つ目の擬宝珠には、寺田屋騒動でついたといわれる刀傷が残っており、西側渡り詰めには、弥次喜多像が建っている。

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