この地は、東国から都への交通の要衝であり、粟田口に位置しています。ここは、東海道の最後の難所日岡峠に続く高みで、粟田口峠と呼ばれていました。そのために、幾度となく掘り下げが行われてきました。
 元文元年(1736)には、五条坂安祥院住持の木食正禅により粟田口峠南の木橋が石橋に架け替えられるとともに、切り下げられました。文化年間(1804-17)には、車道に車石舗装がされ、人馬道には燈籠が建てられました。幕府最後の慶應3年(1867)には、急峻な日岡峠を避け、その北に新道を付け替えました。その結果、この粟田口峠が日岡峠道の最高所となったため、明治以降は粟田口峠が日岡峠と呼ばれています。当町内にある修路碑は、その歴史を物語るものです。
 また古来、都と郊外の境界に位置するこの地には、公開処刑場が設けられていました。江戸時代には、粟田口(日岡)刑場として、この地で磔、獄門、火刑が行われました。刑場を望む山裾には、刑死者の霊を弔い慰め、供養する宗教者によって何基もの供養塔が建てられました。明治5年(1872)には、この刑場跡地の後ろ山中腹に粟田口解剖所が設けられ、短期間ではありましたが、近代医学の発展に寄与した場所でもあります。
 しかし、明治初期の廃仏毀釈や現代にいたる開発によって、供養塔や経王塔などが破壊され、道路側溝の蓋石や石垣石などにされてしまいました。さらに、明治8年~10年にかけての日岡峠切り下げ工事と、昭和6年~8年にかけての京津国道改良工事などによって、景観も一変しました。そのような中で、日岡擁壁には、旧舗石車石や経王塔がはめ込まれて残され、また当町の南、日ノ岡朝田町には出土した供養塔の断片が名号碑や題目碑として復元されており、当地の歴史を知るよすがとなっています。

明治8年~10年の街道改修を記念して明治10年(1877)3月に建立されたもの

粟田口刑場跡解説

修路碑

大正元年(1912)の萬霊供養塔

明治28年(1895)建立の南無阿弥陀仏名号碑

三条通段上の粟田口刑場跡