当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。
 元治元年(1864)8月初旬、当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は 「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。 龍馬とお龍の出会いや 「内祝言」 の具体については、明治32年(1899)ごろに聞き取られた彼女の回想に詳しい。お龍は1906年まで生きていました。
 一般には、慶應2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎一郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだように言われますが、この話は根拠が薄く、他の史料との検討から、お龍の話こそ信用すべきだと思われます。
 この地が選ばれたのは、お龍の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であったためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
 当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)の起きたあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍を寺田屋などに託します。二人は長く別居夫婦だったのです。
 当地を京都における龍馬とお龍の重要史跡として、ここに建碑します。

説明碑

此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡

坂本龍馬・お龍 「結婚式場」 跡