明治2年に東京へ都が移り、産業も人口も急激に衰退していく京都にあって、第3代京都府知事北垣国道は、京都に近く水量豊かな琵琶湖に着目し、疎水を開削することにより、琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き、同時に水力、灌漑、防水などに利用して京都の産業振興を図ろうとしました。この疎水工事の御用係に選ばれたのが、明治16年工部大学を卒業したばかりの田辺朔郎でした。
 工事は最も難関が予想された第一隧道から取り掛かることになり、施工方法についても東西両口からの掘削の他、わが国初の試みとして途中に竪坑方式も採用しています。
 ここのインクライン(傾斜鉄道)はわが国初めての試みで、これによって舟を南禅寺の平地に下ろし、舟溜から鴨川までを鴨東運河で結んでいます。
 明治24年には米国コロラド州アスペンの水力発電を参考にした日本最初の水力発電所が蹴上に完成し、同年11月に送電を開始しています。インクラインの運転動力もこの電力を利用しています。
 水力発電は新しい産業の振興に絶大な能力を発揮し、京都市発展の一大原動力となりました。
 疎水工事は、明治18年6月に着工して以来、数々の困難を乗り越えて同23年3月に大津から鴨川落合まで完成し、それより以南は明治25年11月に着工し、明治27年9月に完成しました。
 琵琶湖疎水は、当時わが国の重大な工事はすべて外国人技術の設計監督に委ねていた時代にあって、日本人のみの手によって行った最初の近代的大土木事業であり、明治期における日本の土木技術水準の到達点を示す近代遺産として、平成8年6月にこのインクラインをはじめ12箇所が国の史跡に指定されています。
 この疎水の水は、現代においても水道用水の他、発電、防火、工業など多目的に利用されており、京都市民の生活を支える重要な役割を担っております。

蹴上発電所水圧鉄管(導水管)

琵琶湖疎水説明

復元されたインクライン(傾斜鉄道)

 田辺朔郎は文久元年(1861)江戸に生まれる。明治15年(1882)工部大学校学生であった田辺は、京都の衰微を回復するため琵琶湖疎水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に会い、請われて翌年、京都府に着任し、財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け、明治18年(1885)起工後は設計・施工の総責任者となる。当時はほとんど機材・資材とてなく、いわば人力のみに頼る。長さ2436mの長等山トンネルの工事は困難を極めたが、卓抜な技術と強い信念、不屈の精神力によりこれを克服した。また優れた先見性により、世界で二番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し、産業動力源とするとともに、わが国初の路面電車を京都に走らせた。明治23年(1890)4月、晴れの通水式を迎えた田辺朔郎は28歳であった。わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に、近代都市京都の基礎をつくった恩人
田辺朔郎の像を建て、ここに顕彰する。

田辺朔郎顕彰碑

疎水工事総括責任者・田辺朔郎像

一身殉事萬戸霑恩(いっしんことにじゅんずるはばんこおんにうるおい)と刻まれている。

田辺朔郎が建立した疎水殉難者慰霊碑

京都電気局建立の殉職者之碑

琵琶湖疎水

工学博士田辺朔郎君紀功碑