日光脇往還 (武蔵高萩~東松山)
令和4年5月5日(木) ☀ 武蔵高萩~東松山 16.0㎞ |
5月3日(火)に引き続き、ゴールデンウイーク中の5日(木)に日光脇往還を歩くこととした。今回は、旧高萩村(高萩宿)をスタートし、日光街道杉並木を抜けて坂戸宿に入り、越辺川(おっぺがわ)を渡って高坂宿、そして都幾川を渡って松山宿(東松山)までの行程である。 |
新相原橋 | 杉並木 | 安養寺 | 日光街道杉並木碑 | |||
JR武蔵高萩駅から旧高萩郵便局前に出て緩やかな下り坂の道を進むと、日高団地入口交差点の先で小畔川(こあぜがわ)に架かる新相原橋を渡っていく。小畔川は、埼玉県飯能市の宮沢湖に源を発し、下流で越辺川(おっぺがわ)に合流している。下流の御伊勢崎付近はかすみ緑地公園地帯として市民の憩いの場となっている。 | 小畔川を渡り500m程進んだところに高萩(並木)歩道橋があるが、ここから凡そ2.7㎞にわたり杉並木が続いている。この並木は杉だけでなく、桧、松、雑木など入り混じったもので、車道の両側に歩道があるので車の往来を気にせず歩くことができる。 | 杉並木に入って1㎞程進むと、左手に實秀山安養寺の日高別院がある。安養寺日高別院はは、平成21年に創立した寺院で、釈迦如来座像を本尊とし、儀式・教化など法事全般を行っている。境内には聖観世音菩薩立像、延命j増菩薩、安祥龍實王像がある。 | 安養寺を過ぎると600m程先の右側歩道部に日光街道杉並木碑が建っている。碑の裏面によると、当初、小田原北条氏によって八王子城から鉢形城への通路として新設されたもので、その後、江戸時代の徳川家光のときに日光東照宮が造営され、火の番として八王子千人同心が往来した頃から日光街道と呼ばれるようになったという。 |
杉並木の旧道口 | 日光街道と並木説明 | 鶴ヶ島中学校 | 庚申塔と馬頭観音 | |||
先に進むと高倉天神交差点のY字路で、国道407号から左に分岐する杉並木の旧道が延びている。この先の並木は杉がかなり減り、松、桧、桜などが多くなっている。 | 旧道口から300m程進むと、信号交差点の右手に 「日光街道と並木」 説明板が建っている。この説明板の裏側に土道があり、ちょっと進むと右手に川崎平右衛門定孝陣屋跡がある。建屋などは無く、広い空地に小さな祠が建っているのみである。 | 街道に戻って先に進むと左手に鶴ヶ島市立鶴ヶ島中学校があり、校庭前の街道脇に桜並木説明板が建っている。説明板によると、台風などにより老樹が倒れ、昔の面影を惜しんだ故川上庄作氏が私財を投じて桜苗を植え付け現在に至ったとある。 | 鶴ヶ島中学校から100m程先のJAいるま野北部資材センターの向かい側に、覆屋に安置された青面金剛の庚申塔と三面六臂の馬頭観音、小さな如意輪観音が建っている。 |
道標 | 白髭神社 | 善能寺 | 関越自動車道高架 | |||
庚申塔と馬頭観音から70m程先の脚折才道木(すねおりさいどうぎ)交差点の左角に、文政4年(1821)の小さな道標が建っている。傍らに説明があり、4面に方面地が刻まれ、この道が八王子から高萩(日高市)、坂戸を経て日光へ通じる日光街道であったことを表している。 | 脚折才道木交差点から400m程進むと右手に白髭神社がある。白髭神社は、霊亀年間(715-717)に高句麗人が高麗郡に入植した際に勧請した白髭神社の一社と伝えられている。境内には、稲荷社・諏訪社・天神社・疱瘡社・八幡社・愛宕社・明神社を合殿と境内社のほか、樹齢900年を超えるケヤキの大木がある。 | 白髭神社から200m程進んだ右手筋を入ると、左手に真言宗智山派の安養山蓮華院善能寺がある。善能寺の創建年代等は不詳であるが、鎌倉時代の創建と云われ、慶長元年(1596)に法印栄慶が中興開山したと伝えられている。境内には、大日堂、釈迦堂、薬師堂、慈悲堂などがあり、池を配した美しい庭園のほか、宝篋印塔、庚申塔、十三重塔などの石造物がある。 | 街道に戻って直ぐ水路に架かる寿橋を渡り、そこから1㎞程進むと関越自動車道の高架を潜っていく。 |
東武越生線踏切 | 三光花影集会所 | 東武東上線踏切 | 坂戸神社 | |||
関越自動車道の高架を潜ると、直ぐ先で、東武越生線の越第4号踏切を渡る。 | 東武越生線を渡り70m程進むと、左手に三光花影集会所があり、敷地内の一角に地蔵菩薩立像、三面六臂の馬頭観音、如意輪観音などの石造物がある。 | 三光花影集会所から400m程先で東武東上線の東第207号踏切を渡る。 | 東武東上線の踏切を渡って進むと、程なく左手に坂戸神社がある。坂戸神社は、元坂戸に鎮座していた白髭神社を村社として、近郷の9社を合祀して、坂戸神社と改称したと云われている。境内には、神楽殿、境内社の皇国神社のほか、物事の吉凶を判断する宝珠の重軽がある。坂戸神社から約1㎞先の坂戸小学校までが坂戸宿である。 |
延命地蔵尊 | 日光脇往還説明 | 永源寺 | 坂戸宿説明 | |||
坂戸神社から200m程先の日の出町交差点の右角に地蔵堂があり、中に地蔵菩薩立像が建っている。由緒等は不明であるが、地蔵堂には南無延命地蔵尊の幟旗が貼ってある。この地蔵堂の斜向かいの交差点角は、千人同心が最初の宿泊地とした旅籠角屋の跡である。 | 延命地蔵尊から250m程進んだ左手に坂戸市案内図があり、その脇に日光脇往還の説明板が建っている。 | 日光脇往還説明の直ぐ先の右手筋を入っていくと、突き当りに曹洞宗の長渓山永源寺がある。永源寺は、三河武士島田次兵衛尉重次が島田家代々の菩提所として、文禄元年(1592)に一寺を建立したのが始まりと云われている。慶長18年(1613)には、徳川秀忠より寺領14石を賜っている。境内には、本堂の大鐘殿法堂、降誕釈尊堂、地蔵堂のほか、境内社の金刀比羅神社がある。 | 永源寺から街道に戻り、その先で元町交差点を渡ると、右手に坂戸市文化会館が建っており、街道に面して坂戸宿説明板が立っている。また坂戸市文化会館の植栽の中に坂戸学校跡碑が建っており、近くに説明は無いが明治6年開校の坂戸学校の跡地と思われる。 |
道標 | 薬師堂 | 街道消滅 | 旧道口 | |||
坂戸市文化会館の所でY字路となり、Y字路中央の坂戸市立坂戸小学校の門脇に道標が建っている。この道標は、この道筋が承応元年(1652)に日光脇往還に定められ、往来する旅人が増加したため、宝暦10年(1760)に建てられたといわれる。 | 道標が建つY字路を左に進むと、坂戸市立坂戸小学校の西門の向かい側に薬師堂が建っている。この薬師堂は、安永年間(1772-81)にはじめられた中武蔵72番薬師巡拝の10番札所になっている。境内には、宝篋印塔、馬頭観音があり、薬師堂の隣には朱い鳥居の神社がある。 | 最薬師堂から200m程先で街道は消滅している。消滅している部分には、東武東上線の北坂戸駅、溝端公園、北坂戸団地などがある。 | 東武東上線を渡り、溝橋公園を抜けて北坂戸団地の西側をしばらく進むと、左手の萬福寺方向へ向かう旧道らしき道がある。 |
旧日光街道の碑 | 萬福寺 | 旧道消滅 | 高坂橋 | |||
旧道らしき道に入って直ぐ右手に旧日光街道の碑が建っている。ここには文政13年(1830)の雨降山常夜燈、嘉永4年(1851)の馬頭観音などがある。 | 旧日光街道の碑の直ぐ北側に真言宗智山派の瑞珠山萬福寺がある。萬福寺は、旧日光街道の碑にも記されていたが、武田家に仕えていた諏訪地方の松本主計宮嶋縫殿介が、武田家滅亡後にこの地に帰農し、縫殿介が開基となり創建したと言われている。萬福寺本堂は小さな御堂であるが、地蔵堂には地蔵菩薩立像、板碑、吉田学校跡碑などがあり、墓地には三面六臂の馬頭観音、地蔵菩薩半跏像などがある。 | 萬福寺から旧日光街道の碑まで戻り、一旦、北坂戸団地前を通る道を横断して旧道らしき道を進み、その先で再び北坂戸団地前から来る道に合流すると、その先で越辺川(おっぺがわ)の堤防に突き当り旧道は消滅する。道なりに進んで東武東上線の高架下を潜って国道407号に合流する。 | 国道407号に合流して越辺川(おっぺがわ)に架かる高坂橋を渡っていく。越辺川は、埼玉県入間郡越生町が水源で、東に流れて下流の比企郡川島町辺りで入間川に合流している。名前の由来については定かではないが、越生の辺りから流れているからという説がある。 |
旧道口(児玉街道) | 九十九橋 | 地蔵堂 | 大黒部公民館 | |||
高坂橋を渡って800m程進むと左手に旧道口がある。この道は国道407号の右手向い側(東)から来る児玉街道であり、平成29年4月~5月にかけて歩いた道である。国道407号と児玉街道が交差するところに安永3年(1772)の道標が建っている。 | 旧道に入ると直ぐ九十九川に架かる九十九橋がある。九十九川は、東松山市岩殿付近に源を発し、下流で越辺川に合流している。 | 九十九川を渡って坂道を進むと、坂の道の途中左手に地蔵堂があり、享保4年(1719)の地蔵菩薩立像、元文5年(1740)の青面金剛の庚申塔が安置されている」。 | 地蔵堂の先も上り坂が続き、350m程先の右手に大黒部公民館が建っている。大黒部公民館は、観音堂を兼ねており、街道に面して六地蔵尊、三面六臂の馬頭観音などの石造物がある。 |
長松寺 | 高坂神社 | 高坂宿並み | 東光院 | |||
大黒部公民館から150m程先左手に、浄土宗の寂照山不二院長松寺がある。長松寺の創建年代等は不詳であるが、ご本尊は湛慶作と伝えられる阿弥陀如来座像で、本堂は元文4年(1739)に再建されたものである。境内には法然上人像、如意輪観音像、庚申塔などの石造物がある。 | 長松寺の先の信号交差点を右に250m程入ると、左手に高坂神社がある。高坂神社は、大同年間(806-10)坂上田村麻呂がこの地を通った時、日本武尊の武徳を追慕して社を建立し、八剣明神社と称したのが始まりという。高坂神社はと改称したのは、明治42年(1909)で境内には当時の手水石が残っている。 | 街道に戻って進むと往時の街道らしさは無いが、中には立派な門構えの家もあり、高坂宿の雰囲気は感じられる。 | 先に進んだ十字路を右に150m程入ると、左手に天台宗の放光山初住寺東光院がある。東光院の創建年代等は不詳であるが、境内には観音堂があり、比企西国三十三所観音霊場18番となっている。観音堂脇には、寛政8年(1796)の三面六臂の馬頭観音が建っている。また東光院の東側には、高坂6号墳があり、その6号墳下には清水が湧き出て 「七清水せせらぎ緑道」 となっている。 |
旧家 | 高済寺 | 追分道標 | 石橋 | |||
東光院から街道に戻り、信号交差点を過ぎると、左手に立派な門構えの旧家がある。 | 先に進んでやや広い通りに突き当たるが、ここを右に80m程東に進んだところに曹洞宗の大渓山高済寺がある。ここは小田原北条氏家臣の高坂氏の館跡であったが、旗本加賀爪氏が高坂地区の半分を領有するようになり、ここに陣営を置いたところである。境内には城山稲荷があり、西側の土塁上には加賀爪氏累代の墓があり、宝篋印塔などが建っている。 | 先に進んでやや広い通りを越えると、右手筋角に児玉街道と日光脇往還の分岐に建っていた道標が2基建っている。この付近の道路整備工事により、一時何処かに退避されていたもので、本来は一本先の右筋角に建っていたものと、左筋角に建っていたものである。手前は道標を兼ねた奉納経拝礼供養塔、奥は八王子道と刻まれた道標である。 | 追分道標から先の右手筋に入って、かつて都幾川の渡しがあった方向に坂道を下て行くと、左下に石橋が見える。この石橋は、渡し場に行く途中の水路に、元治元年(1864)に架けられたもので、長さ3.7m、幅1.5mで、裏面に世話人12名の名が刻まれている。傍らには、石橋供養塔が建っており、正面に馬頭観音坐像が刻まれている。 |
旧道消滅 | 高済寺下の清水 | 新東松山橋 | 旧道復帰 | |||
石橋の延長線上を進むと都幾川の河川敷に突き当り、旧道は消滅している。引き返して高済寺前から迂回して行くこととした。 | 高済寺前から坂道を下って行くと、右手に小川となっている 「高済寺下の清水」 がある。高坂七清水の一つで 「七清水せせらぎ緑道」 となっている。 | 更に進んで国道407号を左折して都幾川に架かる新東松山橋を渡っていく。都幾川は埼玉県比企郡ときがわ町に源を発し、下流で越辺川に合流している。 | 新東松山橋を渡って程なく、右手の東屋の前から田んぼの中の一本道を北に向かって進んでいく。前方にこんもりとした小山が見え、その手前に新江川に架かる下野本橋がある。新江川は、関越自動車道の東松山インターチェンジ付近に源を発し、下流で市野川に合流している。 |
無量寿寺 | 野本村道路元標 | 八幡神社 | 七鬼神社 | |||
下野本橋を渡った先の十字路を右に進むと、左手に曹洞宗の利仁山無量寿寺がある。無量寿寺の創建年代等は不詳であるが、ここは野本基員(もとかず)を初代とする野本氏一族の館跡であり、当時は野本寺と呼ばれていたという。ご本尊は釈迦牟尼仏で、境内地には将軍塚古墳があり、塚上に野本基員を祀った利仁神社がある。 | 無量寿寺から下野本橋を渡った十字路に戻ると、十字路の右手に野本村道路元標が建っている。 | 野本村道路元標の先で国道407号を横断して先に進むと、左手に八幡神社がある。八幡神社の創建年代等は不詳であるが、当初は雷電社として祀られていたという。八幡神社の獅子舞いは、秋祭りに厄除け、家内安全、五穀豊穣の感謝の奉納舞として行われているという。境内には天満宮のjほか、青面金剛の庚申塔、伊勢参宮記念碑、伊勢太々御神楽碑などがある。 | 八幡神社から350m程先で国道254号を渡り、更に800m程進むと五差路に出る。この五差路の左手に七鬼神社がある。七鬼神社の詳細は不明であるが、覆屋には七鬼神社石祠と神明社が並んで祀られている。また五差路の右手には地蔵菩薩立像が建っている。街道は五差路を北に向かう県道66号を進んでいく。 |
箭弓稲荷神社大鳥居 | 清正公堂 | 旧道口 | 馬頭観音 | |||
五差路の直ぐ先の左手筋に箭弓(やきゅう)稲荷神社の大きな鳥居が建っている。箭弓稲荷神社は、和銅5年(712)の創建と伝えられる古社で、社殿は東武東上線を越えた西側にある。 | 箭弓稲荷神社の大鳥居から350m程進むと、左手に清正公堂がある。清正公堂の詳細は不明であるが、境内に上田朝直(ともなお)建立青石塔婆(県指定史跡)標柱が建っており、清正公堂の隣の覆屋に安置されている。この青石塔婆は、元亀2年(1571)松山城主上田能登守朝直入道安独斎が、一族や家臣の冥福を祈って建立したものである。 | 清正公堂の前で県道66号から右に分岐する旧道がある。この道は300m程先で再び県道66号に合流する。 | 県道66号に合流すると下沼公園の脇に、文久元年(1861)の馬頭観音,、慶応元年(1865)の馬頭観音、元文5年(1740)の一面六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。傍らには詳細不明な 「をんな橋」 親柱が建っている。 |
下沼公園 | 福聚寺 | 東松山駅 | ||||
馬頭観音が建っている南側は下沼公園である。池の中程に弁天堂があり、周囲に柳の木が植えられ、この時期は蓮の花が見ごろである。 | 街道に戻ると左手に天台宗の法音山多門院福聚寺がある。福聚寺の創建年代等は不詳であるが、中武蔵七十二薬師65番となっている。境内には地蔵堂があり、地蔵菩薩立像が安置されている。 | 今回はここで終了し、最寄りの東武東上線東松山駅に出て帰宅の途に就いた。東松山駅は、大正12年(1923)に武州松山駅として開業し、昭和29年(1954)に現在の駅名に改称した。 |