上吉田の起源については明らかではないが、正代氏文書に拠れば承元4年(1210)3月29日の記録に沙弥連が小代有平に与へた譲状によしだむらの四至として東こさむのをみ南あとかは西大とうのふるみち北たむきのさかひを挙げてすでに集落が存在した事を示して居る。降って天正10年(1582)武田勝頼の敗死によりその家臣が此処に帰農。江戸中期にはすでに49戸を数える集落となった。又この街道は戦国時代小田原北条氏が鉢形厩橋忍諸城との連絡路として利用し、江戸初期、日光東照宮造営15年後の慶安4年(1651)八王子千人同心がその火の番役を仰せつかり、勤務の為50人で半年交代で日光へ往来した為、日光街道と名付けられ八王子から始まって坂戸宿と通り、当集落周辺を過ぎり松山吹上忍を経て、例幣使街道に合流した。この街道に沿うむらの入口に雨降山の石燈籠と馬頭観世音供養塔が建てられた頃植えた吉田の松はその樹形が美しいことで、道往く人々に永く親しまれて来た。
慶応2年(1866)米価暴騰に堪えかねて飯能暴動と伝われる吾野谷等の山村民の蜂起による 「打ちこわし」 が日光街道を坂戸宿まで押し寄せたとの情報に急遽むら中の家々で炊出しを行い、これを両問屋に持ち寄り酒と握り飯を振る舞ったため、一揆に乱暴することなく過ぎたと言い伝えて居る。明治以降、近衛第一第14師団の秋季演習の都度在郷軍人青年団員が湯茶の接待に当たり、又行軍の靴音に子供達が胸躍らせたるもこの吉田の松付近であった。
昭和農業恐慌の救農事業として道路改修が行われ、昭和40年代北坂戸団地が日本住宅公団の手によって造成され、街道は全くその姿を失うに至った。
旧日光街道の碑を建て後世に伝えると共に昔を偲ぶよすがとする次第である。
昭和55年(1980)立春
北緯35度58分28秒
東経139度23分52秒
文政13年(1830)の雨降山常夜燈
旧日光街道の碑
上吉田の座標
嘉永4年(1851)の馬頭尊碑(馬頭観音)