野本基員を初代とする野本氏一族の館跡です。野本氏は系図から平安時代の公卿藤原基経(836-91・堀田大臣)の家の警護をしていた片田基親の子基員が武蔵国野本に移り住んで野本左衛門と名乗ったのが、野本氏の始まりと言われています。基員は、源頼朝の信頼が厚かった武士で、鎌倉時代の歴史書 「吾妻鏡」 にも登場する人物です。
 館は現在、無量寿寺の境内地となっており、本堂の北側で土塁と堀がわずかに確認できるだけとなっていますが、実際は二重の堀と土塁を廻らした構造の館となっています。外側の土塁と堀は当初のものではなく、後世の増築によるものと考えられています。江戸時代の武蔵国の様子を書いた 「新編風土記稿」 の無量寿寺の項には、「寺領の外境内一万四千坪、境の廻り四方に堤を築き、堀の跡残れり」 とあり、同書の 「将軍塚の図」 には土塁や堀の様子が描かれています。
 館が造られた時期については、基員が貞永元年(1232)に亡くなっていること、また無量寿寺に残されている建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本より、当時無量寿寺が野本寺といわれていたことなどから、遅くても13世紀の初め頃には館が造られていたと考えられます。
(東松山市教育委員会)

 都幾川を望む東松山台地の南縁に所在しています。現存する墳丘の長さは最も長い所で115mあり、埼玉県でも有数の規模を誇る前方後円墳として、昭和35年(1960)3月1日に埼玉県指定史蹟に指定されました。
 平成29年(2017)、細密な墳丘調査と地中レーダー探査を中心とする非破壊調査を実施し、前方部二段、後円部三段の立体構造を持つ、精緻な前方後円墳であることと、後円部のほぼ中央に遺体を安置するための施設が今も残されていることが分かりました。この成果から、将軍塚古墳が古墳時代前期に築造された、当時埼玉県内最大規模の前方後円墳であったことが分かってきました。
 近年周辺で発見された集落跡や古墳、出土した遺物などを考え合わせると、当時ヤマト王権が関わって行われた大規模な低地開発の結果、活発な地域間の交流が生まれ、それらをまとめ、治めた首長のために将軍塚古墳が築造された背景が見えてきます。
(東松山市教育委員会)

山門に掛かる利仁山の扁額

六地蔵尊

無量寿寺山門

塚上の利仁神社両部鳥居

将軍塚古墳

将軍塚古墳碑

三面六臂の青面金剛の庚申塔(左)、文字庚申塔(右)

将軍塚古墳説明

稲荷社

野本陣屋説明

利仁神社参道石段

狛犬

狛犬

利仁神社拝殿

境内社の白山妙理大権現、天神様

出世地蔵尊(左)、水子地蔵尊(右)

十三仏像

線香地蔵尊(地蔵菩薩立像)

線香地蔵尊の扁額が掛かる地蔵堂

本堂に掛かる無量寿寺の扁額

無量寿寺本堂

道元禅師像