近世における江戸より日光への道は、五街道の一つである 「日光道中(日光街道)」 や将軍社参のみちである 「日光御成道」 が中心的な道として一般に知られている。
家康、家光が祀られている日光山は、幕府や各藩の大名はもちろん、各地の武士、町民、農民などにも尊敬され、多くの人々が参詣に赴いていた。このため、日光への道はこれら二大街道以外にも”裏街道” ”脇往還”
と称されるものが、各地に存在する。
この街道は、江戸時代に八王子にいた千人同心が日光東照宮の火の番を交代で勤めるために、往来した道で、地元では日光街道といわれているが、別名千人同心街道とも呼ばれた。いわゆる日光脇往還である。この日光街道はもともと小田原北条氏により新設された軍用道路として原型があったらしく、それが江戸時代に入り、整備拡張された。
県下に誇るこの街道にある並木は寛永年間(1624-44)に、川越藩主松平伊豆守が植えたと伝えられている。
江戸時代、並木は地元の人々による手厚い管理、保護、育成を受けていた。また、植樹による補充も絶えず行われ、その努力を記した文書も数多く残されている。しかし、残念ながら近年、杉の大樹の数も随分とまばらになってしまい、点々として残る老樹は今もなお、歴史の重みを感じさせてくれる。
現在、並木は鶴ヶ島市、川越市、日高市にまたがって、5.3㎞と長く続いている。樹の種類は杉と松が主で、ひのき、くぬぎ、なら、そろ、などが混じっている。また、多数の桜が植えられて、桜並木の感がするところもあり、桜花の季節には行き交う人々の目を楽しませている。
(鶴ヶ島市教育委員会)
川崎平右衛門定孝は元禄7年(1694)武蔵国多摩郡押立村(現在の府中市)の名主の家に生まれました。元々農業に従事し、荒地の開墾や用水・灌漑の改善など各種振興事業を行ったり、私財を投じて窮民を救ったこともあり、篤農家として村民からは厚い信頼を受けていました。抜擢されて新田世話役、のちに代官となり武蔵野新田開発を成功に導きました。この三角原は新田開発に当たり、彼が拠点として陣屋を設けたところです。
享保7年(1722)徳川吉宗による新田開発令が出て、武蔵野台地の全面的な開拓が進められましたが、これは多数の新田村をつくり、石高にして11万2千石(1石は約180㍑)の増収を得ようとする計画でした。
開発当初の出百姓(入植者)の困窮は甚だしく、また大凶作にも見舞われ、元文4年(1739)には新田の総家数1327戸のうち161戸が潰れ百姓(破産した農家)となり、どうにか生活していけるものは僅か9戸であったといいます。幕府は武士が指導した新田開発が失敗した苦い経験から農民出身の平右衛門を南北武蔵野新田世話役に登用し、農民の実情にあった新田開発事業を推進させました。
平右衛門と農民の努力の結果、多摩郡・高麗郡・入間郡・新座郡にわたって5百町歩(約500ヘクタール)の新田がみごとに開墾され、やがて寛保3年(1743)平右衛門は代官に任ぜられました。その後、明和4年(1767)、平右衛門は幕府勘定所の検査をする勘定吟味役兼諸国銀山奉行となりましたが、同年6月74歳で生涯を終えました。
ここにある小祠は、寛政10年(1798)新田の農民達が平右衛門の徳を追慕して建てたもので、正面に川崎大明神と刻み込まれています。
陣屋は平右衛門が美濃に任地替になったため建物は取り払われましたが、土塁や堀は昭和16年日本農地開発営団の開墾が始まるまで残っており、現在の土塁はその後に作られたものです。
平成5年に陣屋跡の確認調査を実施したところ、位置は現在のものと一部分で重なりながらも、西側を走る日光街道杉並木と並行し、堀跡等は発見され陣屋跡の規模からそれまで考えられていたものより約3倍(東西53.5m、南北55m)の大きさがあることがわかりました。
(鶴ヶ島教育委員会)
高倉天神交差点から分岐する杉並木道
日光街道と並木説明
川崎平右衛門定孝陣屋跡
(空地の奥に小さな祠が建っている)
武州三角原・川崎平右衛門定孝陣屋跡説明