小田原の北条氏によって八王子城から鉢形城への通路として新設されたこの道路は、当時軍用道路として重要使命をもったものでである。勿論その頃は野中の一本道で高萩村から鶴ヶ島村を通過、坂戸町まで53㎞と続いていたので、この街道を旅する人達は暑さにつけ、寒さにつけ、その難儀の様は言語に絶するものがあったと思われる。
 時は流れ徳川三代家光の時代に入って、懸案の日光東照宮も完了したので、その警護に八王子千人同心隊を起用することとなり、これら警護の人々の往来した道として、この辺りから日光街道と呼ばれるようになった。
 伝承によると江戸期川越城主松平伊豆守が、松は相模国、杉は武蔵国御嶽山、楢(なら)・櫟(くぬぎ)そろは上野国赤城山から苗木を取寄せ植樹したものと云われて樹齢は300年、日光の杉並木と並ぶ歴史的名所となっているが、代の移ろいに従って寿命による枯損木や台風その他の気象条件、或いは交通事情の影響によって、植栽当時の樹木も減少の一途を辿り、前途を想えば消滅をさえ感じさせられる様相を示して来たので、昭和55年11月高萩地区同志相謀り、日光街道並木保全会を結成、会員を募り徹底した奉仕活動を展開、理解ある多くの会員と共々これを持続、杉苗600本を南北並木に補植し、先人の意図を継承する礎が出来たのである。茲に5周年を迎えるに当たり碑を建てて、その由来を記すものである。
 昭和60年11月22日 日高市日光街道並木保全会長

杉並木歩道部

日光街道標識

日光街道並木保全の記
(日光街道杉並木碑裏面)

国道407号沿いの杉並木

杉の巨木切株