永源寺は江戸時代に、徳川家に仕えた島田利秀入道永源が建てました。本堂の裏に、島田家代々のお墓があります。このお寺では毎年5月に、「坂戸のお釈迦さま」
として親しまれている釈迦降誕祭が行われます。この日は、お店や植木屋がたくさん出て、大いに賑わいます。
「坂戸のお釈迦さま」 として親しまれている永源寺の釈迦降誕祭は、お釈迦さまの誕生日を祝うお祭りです。本堂前に設けられる花御堂の誕生仏に、竹のひしゃくで甘茶をかけて祈願する
「花祭り」 の行事で、毎年5月に行われます。
徳川家の重臣であった島田家は、徳川家康の関東入城に従い、坂戸を所領地として与えられました。慶長8年(1603)島田利秀入道永源が、島田家の菩提寺として永源寺を創建しました。以降、島田家は江戸幕府の要職を歴任しましたが、寛文2年(1662)島田忠政が長崎奉行を勤めたとき、中国伝来の降誕釈尊仏などを永源寺に納め、これを契機に釈迦降誕祭が始められたと言われています。
その後、永源寺の第20代住職となった黙室良要禅師により七堂伽藍が整備され、文化10年(1813)には 「花祭り」 として盛大に行われ、「坂戸のお釈迦さま」
として関東一円に知られるようになりました。
誕生仏に甘茶をかけた竹のひしゃくで、桑に水をまくとご利益があると信じられ、「お釈迦さま」 の売上で坂戸の景気が左右されるとも言われました。「お釈迦さまに雨が降ると坂戸では蚊帳がつれぬ」
ということわざが残っています。
(坂戸市教育委員会)
新築本庫裡 「禄源台」 の名称について
当山開創の年代が江戸時代初期の文禄元年であることが、文献に既に承知の通りであります。往昔徳川直参旗本の島田次兵右衛尉重次公が坂戸の地を領有し、当時幕府江戸代官頭の重鎮に在ったことから千葉東金が幕府直轄の天領となった文禄元年(1593)に東金代官に任ぜられ居を東金へ移す関係上、坂戸の館跡へ一門の菩提寺を創立し、三河より入道永源公を招き開基とす父の号を寺号となし、館跡をそのまま永源寺領に寄進して行ったと伝わる。この歴史の深い縁を永く存続する意味をもって文禄元年(1593)に永源寺が開かれたことから
「禄源台」 と名付けた由縁である。
禄源台新築再建記念碑
坂戸の釈迦降誕祭説明
永源寺の開基島田家は清和源氏の流れを汲み、土岐光信より9代、満貞によって島田姓となった。その昔、戦国動乱の天正12年(1584)頃、徳川家康腹心の配下が関東各地に送り込まれた。その中の一人として、三河武士旗本島田次兵衛尉重次が坂戸とその近村を領有し統治した。重次はこの坂戸の地を島田家一門の居住所と定め、折から松山城落城の落武者等を坂戸へ招き、荒廃した土地を開拓し坂戸の開発と興隆につとめた。
文禄元年(1592)ここに一寺を建立して島田家代々の菩提所とし、すでに三河にて隠居し、入道永源と号していた父右京亮利秀を招じて開基とし、その号をとって永源寺の寺号とし、当時関三刹の越生龍ヶ谷の龍穏寺14世大鐘良賀大和尚を講じて開山(初代住職)となした。
慶長18年(1613)に徳川二代将軍秀忠公より寺領14石余の御墨印を賜り、寛永13年(1636)には御朱印に改められ、代々24石余の寺領を拝領した。
万治3年(1660)、永源寺4世住職鉄心御州大和尚は、大本山永平寺29世大覚仏海禅師として曹洞宗門最高の栄誉に昇進され、時の後西天皇より賜った勅賜禅師号の御宸筆は現在永源寺の寺宝として大切に保存されている。
◎降誕釈尊像の伝来と降誕祭
永源寺創立者島田重次より3代後、出雲守忠政が長崎奉行の時、中国より伝来せる誕生仏等の献上を受け、たまたま寛文2年(1662) 「丙丁の災」
による菩提所伽藍再興を期に、この誕生仏を永源寺に奉納し、その由緒を以って、以来降誕仏の祭りを行うこととなった。特に文化10年(1813)、時の名僧黙室良要禅師が永源寺七堂伽藍の完成を期し、その名声と共に、この誕生仏を祝う降誕祭も一躍盛事をみるに至り、関東一円に信仰を集めることとなった。
永源寺由緒
境内社の金毘羅神社拝殿
拝殿に掛かる金毘羅大権現の扁額
聖観世音菩薩立像
鐘楼
手水舎
降誕釈尊堂
永源寺本堂
香炉
本堂に掛かる大鐘殿の扁額
六地蔵尊
地蔵菩薩立像
永源寺参道口
地蔵堂
地蔵堂に掛かる延命地蔵尊の扁額
地蔵菩薩半跏像