高坂館跡は高坂氏の居館として南北朝時代に造られました。近年の発掘調査で、現在地の南にある高坂二番町遺跡(現子育て支援センターマーレ周辺)から、高坂氏が活躍した時期(14世紀前半)のかわらけや輸入陶磁器が出土し、当時の館の中心はもっと南にあった可能性があります。
現存する土塁や塀は、「鎌倉大日記」 に伊勢宗瑞(北条早雲・明応の政変に際し明応3年(1494)に在陣)が、「正法寺文書」 北条氏康(松山城攻めに際し永禄5年(1562)に在陣)がそれぞれ在陣したとの記述があることや、発掘調査で土塁や堀を改修した痕跡が見つかったことから、戦国期に整備されたものと推定されます。
館というよりも ”城" のような規模になっていった 「高坂館跡」 は、戦国期の激しい動乱を伝える貴重な遺跡です。
【 館の規模 南北220m・東西170m 土塁頂部と堀底の比高差8m 】
(東松山市教育委員会)
加賀爪氏は、徳川家に仕えて禄高一万石を領し、この地に陣営を置いた領主です。しかし、元和元年(1681)に加賀爪氏は、その家禄を断絶されました。
加賀爪政尚は、徳川家康に仕え、長久手の戦い、小田原征伐に戦功があり、比企と相模国高座(神奈川県高座郡)に三千石を領しました。加賀爪忠澄は、関ケ原の戦い、大阪の役に戦功があり五千五百石を領し、江戸町奉行に登用されました。加賀爪直澄は、旗本中の乱暴者として通ったようですが、書院番隊長、寺社奉行等を勤めました。また、茶道にも通じていたらしく、鶴陽舎一明、別に、名月庵鑑とも号していたと伝えられています。
加賀爪氏は、直澄の代に成瀬氏との間で領地問題を起し、天和元年(1681)に領地を没収されています。 (以下、墓碑銘が記されている。)
(東松山市教育委員会)
高坂館跡説明
高済寺本堂
高済寺山門
山門に掛かる大渓山の扁額
加賀爪氏累代の墓説明
残存する高坂館跡土塁
庚申塔
聖観世音菩薩立像
加賀爪氏累代の墓
城山稲荷社本殿
城山稲荷社
六地蔵尊