「坂戸の宿はさかさ宿」 と伝わるように、坂戸小学校の交差点付近(下)から、坂戸神社方向(上)へと発展してきました。元町(四丁目)、仲町(三丁目)、本町(二丁目)の順に整えられ、一丁目(本町)に宿並みが整備されたのは、江戸時代になってからです。
坂戸宿の開設は、天正12年(1584)に河越城代大道寺駿河守政繁が主君・小田原北条氏の命を受け、元坂戸(北坂戸)から、農家39軒を移して、新しく集落を整備したのが始まりといわれています。
坂戸宿を通過する街道は、八王子・高萩から坂戸を経て、高坂・松山・吹上・忍・舘林に通じる当時の幹線道路で、江戸時代になると徳川幕府によって、「日光脇往還」
として整備され、関東郡代配下の 「八王子千人同心」 が、日光東照宮の火の番(警備)のために往来した道で、八王子を出発して最初の宿泊地でした。しかし、当時は旅館も無く、隊員達は、周辺の農家に分宿したと伝えられ、享保8年(1723)になって、現在の日の出町交差点に旅籠
「角屋」 が開業すると、同心隊の役付隊員のみが角屋に泊まり、平隊員50人近くは、依然周辺の農家に分宿したといいます。
江戸時代の坂戸宿は半農半商の宿場で、この通りにおいて、3・8日に開かれた坂戸の市は、他の地域の市日とずれていたため、広い範囲から生産・生活物資が持ち込まれて賑わいました。後に店売りが始まり、市日以外の商売が定着して、宿通りは発展しました。
(坂戸市教育委員会)
植栽の中に建つ坂戸学校跡碑
坂戸宿説明
坂戸市文化会館