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旧水戸街道   (千住追分~馬橋


平成30年3月28日(水)    ☀    北千住~馬橋    15.0㎞
桜が満開となり気温も上がってきたので、街道の桜を見ながら歩くこととした。今回は旧水戸街道を始めようと早朝に家を出て、北千住(千住宿)の追分からスタートである。スタートして間もなく荒川を大きく迂回する必要がある。この先の宿場は、新宿、松戸宿となる。

宿場町通り 追分道標(旧水戸街道入口) 氷川神社 鉄道高架
北千住駅から宿場町通りに出ると、早朝のためか人通りはまばらである。
この千住宿場町通りは、旧日光街道で歩いているので、途中にある高札場跡・横山家住宅・千住絵馬屋吉田家には立ち寄らず、横目に見て先に進む。
横山家住宅の先の信号十字路右角に道標が建っている。
この道標には、「北へ旧日光道中」 「東へ旧水戸佐倉道」 と刻まれ、ここから旧水戸街道となる。
街道を進むと間もなく、右手に素戔嗚尊を祭神とする氷川神社がある。
氷川神社は、元禄4年(1691)に長円寺境内に建立され、明治3年(1870)に同寺と氏子が社地を定める申し出をし、明治5年(1872)に千住宿の村社にさだめられた。
境内には、高正天満宮縁起碑・正木檪蔭事績碑のほか、稲荷社・天満宮・猿田彦大神などの境内社がある。
氷川神社の直ぐ先に東京メトロ千代田線・JR常磐線・つくばエクスプレスの3路線が通る鉄道高架があり、街道はここをくぐっていく。

清亮寺 道標 迂回路 旧道口
鉄道高架をくぐると、その先にある東京スカイツリーラインの高架手前の左手に日蓮宗の久栄山清亮寺がある。
清亮寺は、元和5年(1619)身延山久遠寺末として、運寮院日表上人によって、水戸街道入口のこの地に創建された。
本堂は天保4年(1833)に再建された総欅造で、山門は名筆中村不折書の 「久栄山」 の扁額が掛かる薬医門である。
国東京スカイツリーラインの高架をくぐると、荒川土手に突き当たり、手前の電柱に旧水戸街道の道標が貼られている。
旧水戸街道は、この荒川によって分断されるが、荒川(放水路)は大正2年(1913)から昭和5年(1930)にかけて掘削されたもので、かつては対岸の小菅まで直線の道が続いていた。
今回は、上流の千住新橋で迂回してく。
荒川土手に上がって上流の千住新橋を渡って対岸の小菅まで向かう。
対岸までは、直線で600mであるが、迂回路は2,800mとなる。
荒川土手と並行している首都高速中央環状線の下に旧道口がある。
ちょうど千住からの延長線上にあたり、旧道口の右手角にある民家の塀に 「水戸橋通り(水戸佐倉道)」 の解説が貼られている。

水戸橋 小菅神社 薬師寺 小菅の風太郎
先に進むと首都高速6号三郷線の高架が見え、この下に流れる綾瀬川に水戸橋が架かっている。
かつては突き当りに木橋の水戸橋があったが、現在はその橋台の石組が保存されてのみで面影はなく、直ぐ上流に新しい水戸橋が架かっている。
綾瀬川に架かる水戸橋を渡ると、右手奥に小菅神社がある。
小菅神社は、明治2年(1869)に小菅県が設置されたとき、県庁内に皇大神宮を勧請したのが始まりで、その後、小菅村の鎮守であった田中稲荷神社の境内に合祀され、小菅大神宮と称したが、明治42年(1909)小菅神社と改称し、田中稲荷神社を摂社とした。
街道に戻って進み、左手の水路に架かる鵜乃森橋を渡って100mほど入った左手の奥に真言宗豊山派の宝珠山普門院薬師寺がある。
薬師寺は、寛永9年(1632)賢明法師による開山であり、境内には千住の接骨医名倉氏初代の書である 「医王堂」 の扁額が掛かる薬師堂のほか、種子庚申塔などの石造物がある。
街道に戻ると直ぐ先の信号交差点の左手の水路に架かる橋の脇に小菅の風太郎解説碑がある。
解説碑には、概ね次のように刻まれている。
ある藩の大名行列がこの辺りで突然一陣の風に吹かれ、近くに植えられていたもろこしが殿様の乗った馬に絡んで殿様が落馬してしまった。畑の持ち主は許しを請いましたが、手打ちとなってしまった。以後、ここを通るとどこからともなく 「風よふくな!殿様に殺されるよー」 という声が聞こえたという。

蓮昌寺 昌栄稲荷社 道標 「上千葉遺跡と普賢寺」解説
街道に戻って先に進むと、左手に日蓮宗の法光山蓮昌寺がある。
蓮昌寺は、正安2年(1300)松本阿闍梨日念が創建した道昌寺を、慶長19年(1614)三代将軍家光が亀有付近で放鷹の際、境内の蓮花を見て称賛し、蓮昌寺と称すよう命じたという。
境内には三光堂・七面堂のほか、小林法運先生筆塚・南無日蓮大菩薩碑などの石造物がある。
蓮昌寺の先の小菅三丁目交差点の右角に昌栄稲荷社がある。
狭い境内に鳥居・拝殿があるのみで、いたってシンプルな神社である。
小菅三丁目交差点の200mほど先にY字路があり、左筋に 「旧水戸街道(旧水戸佐倉街道)」 の道標が建っている。 旧道を100mほど進んだ信号十字路を左に入ると、水路脇に 「上千葉遺跡と普賢寺」 の解説がある。解説には、概ね次のように刻まれている。
この遺跡発見は、嘉永3年(1850)畑から壺とその中から古銭約1万5千枚が発掘された。古銭は開元通宝・皇宗通宝・元豊通宝など中国から輸入されたもので、壺は愛知県常滑で焼かれた13~14世紀のものである。付近には治承4年(1180)の開基と言われる古城跡に建立されたという普賢寺がある。

香取神社 Y字路 下河原公園 道標
街道に戻って信号十字路を右折すると、六差路の右手に香取神社がある。
香取神社は、宝徳3年(1452)に下総国の香取神宮より御分霊を勧請したことに始まると云われ、旧上千葉村の鎮守として崇敬された。
境内には、上千葉稲荷神社・上千葉七福神・天満宮のほか、招魂祖霊社などがある。
街道に戻ると直ぐ先にY字路があり、街道は右に進んでいく。 先に進むとJR常磐線の高架に突き当たり、街道は右に進んでいくが、JR常磐線の高架をくぐると下河原公園がある。
この公園の脇に古隅田川解説、庚申塔3基と旧水戸街道碑1基が建っている。
街道に戻って大きく左右に曲がった道を進むと、都道467号線(江木橋通)に合流する。
この合流地点の左手に、水戸方面からの旅人用に道標が建っている。
道標には、「旧水戸街道(旧水戸佐倉街道)」 と記されている。

砂原稲荷神社 善養寺 曳舟川親水公園 蓮光寺
都道467号線に合流したところに西亀有三丁目交差点があり、右に150mほど入ると砂原稲荷神社がある。
砂原稲荷神社は、慶長年間(1596-1614)の創建と云われているが、鳥居・手水石・社殿などは新しく、近くに由緒などの記載はない。。
街道に戻ると、西亀有三丁目交差点の直ぐ先右手に浄土宗の南照山」善養寺がある。
善養寺は、天正年間(1573-921)僧理頓が念仏堂を建てたのが始まり云われ、本尊は阿弥陀三尊である。
門扉が閉ざされており、境内には入れなかった。
更に進んでいくと、道上小学校東信号交差点の右手道路の中央に曳舟川親水公園があり、公園碑の前に道標が建っている。
道標には、「曳舟古浄水橋」 「これより水戸佐安倉街道」 などと刻まれている。
曳舟川親水公園を南に200mほど行った左手に、真宗大谷派の本多山蓮光寺がある。
蓮光寺の創建年代は不詳であるが、当初、近江国横須賀に創建され、のち三河国安祥、江戸神田など幾多の変遷を経て、昭和2年(1927)現在地に移転した。本尊は阿弥陀如来で、境内には松が50本ほど植えられているため、一般に 「亀有の松寺」 として知られている。

亀有一里塚跡 慈眼寺 恵明寺 香取神社
街道に戻って道上小学校東交差点の先を進むと、右手に亀有一里塚跡がある。
ここには平成14年の旧水戸街道拡幅工事を記念して建立された一里塚碑と解説・石像三体がある。亀有一里塚は、千住宿から一里、江戸日本橋からは三里のところに位置するが、本来の位置は、ここから東へおよそ10m先にあったという。
先に進んで右手の炭火焼肉味道園の脇の路地を入っていくと、真言宗豊山派の普明山観音院慈眼寺がある。
慈眼寺は、天正4年(1576)元真が開山したと伝えられている。現本堂は鉄筋コンクリート造となっているが、境内には万治3年(1660)の地蔵菩薩、享保12年(1727)の地蔵菩薩や中興快賢の五輪塔などがある。
街道に戻って進むと程なく左手に真言宗智山派の香取山明王院恵明寺がある。
恵明寺は、建治2年(1276)の開山と云われ、元文元年(1736)以降は、徳川将軍家鷹狩りの際の御膳所となっていた。
南葛八十八ヶ所霊場第47番、荒川辺八十八ヶ所霊場第56番、新四国八十八ヶ所霊場第11番となっており、境内には弘法大師堂のほか、青面金剛の庚申塔などがある。
街道からは外れるが、恵明寺の直ぐ北側の環七通り(都道318号線)添いに香取神社がある。
香取神社は、この地が 「亀無郷」 と呼ばれた建治2年(1276)に郷内の守護神として創建された。江戸幕府が作成させた 「正保改定図」 には 「亀有」 の表記が確認できるが、詳細な改称時期や理由は不明である。境内には、神明宮・水神宮・稲荷神社などたくさんの境内社があるが、境内一部改修工事のため玄恵井の碑は見ることが出来なかった。

玄恵井の碑解説 庚申塔 中川橋 立増寺
香取神社の直ぐ裏手(北東側)の古隅田なかよし公園の近くに玄恵井の碑解説がある。
これは香取神社境内にある碑の解説で、江戸時代飲み水に困っていた事を知った幕府役人が、山崎玄恵という老人の助力を得て井戸を掘ったところ清水が湧き出たという。喜んだ村人達は玄恵に感謝し、清水が湧き出た日を記念して、文化10年(1813)に玄恵井の碑を香取神社に建立した。
古隅田なかよし公園に隣接する隅田あいあい児童遊園の一角に、板碑型阿弥陀三尊種子庚申塔が建っている。
この庚申塔は江戸時代初期の承応2年(1653)のもので、正面に 「種子奉造立庚申供養待意趣者為二世安楽」 と刻まれ、後の青面金剛の庚申塔のような刻像塔に対し、文字塔と呼ばれている。
街道に戻って先に進むと、中川に架かる中川橋がある。
橋の渡詰(東)には、昔から街道を往来する人々の道しるべとなっていた 「タブの木」 の切株が保存されている。傍らには、旧中川橋両岸の親柱が保存されている。
街中川橋を渡った先の信号十字路を右折するのが街道であるが、左折すると日蓮宗の長遠山立増寺がある。
立増寺は、永正年間(1504-21)日位上人の創建で、駿河国松野の郷士松野六郎左衛門重正の開基と伝えられている。境内には、六地蔵尊、慈母観世音菩薩のほか、日蓮大菩薩報恩塔などがある。

宝蓮寺 西念寺 中島守利像 日枝神社
立増寺の東側に真言宗豊山派の医王山蓮華院宝蓮寺がある。
宝蓮寺は、天文元年(1532)に栄源が中興開基となり創建したと伝えられている。本尊は不動明王像で、境内には弘法大師堂が二つ建っており、それぞれ南葛八十八ヶ所霊場第73番、新四国四箇領八十八所霊場第52番の弘法大師像が祀られている。
街道に戻って信号十字路を右折すると、新栄町会館の先右手に浄土宗の覚林山宝樹院西念寺がある。
西念寺は、文安5年(1448)僧浄円が草庵を結んだのが始まりで、天文元年(1532)覚蓮社法誉が開山と云われている。墓所入口には、徳川将軍家が鷹狩りに訪れた際、食膳に供する生簀の魚を献じた矢作藤左衛門(生簀守)の墓と解念仏供養碑がある。
西念寺を過ぎると、右手の山王保育園の前に中島守利像が建っている。
中島守利は、明治10年(1877)10月に葛飾郡新宿に生まれ、新宿郵便局長、新宿町長、東京府会議員等々を歴任し、その後は衆議院議員を通算8期務め、国政に尽力した。
街道は中島守利像の前を左折していくが、直進していくと日枝神社がある。
日枝神社の創建年代は不詳であるが、ここ新宿町は水戸街道と佐倉街道が分岐する位置にあり、新宿町の鎮守で山王社と称されていた。当初は現在よりも西方にあったが、享保14年(1729)に中川改修のため現在地に遷座した。
境内には、山王鳥居が建ち、よなき稲荷社・水神社の境内社がある。

浄心寺 旧道口 浜街道踏切 国道6号線
街道に戻って中島守利像の前を左折していくと、左手に浄土宗の林光山浄心寺がある。
浄心寺は、慶長19年(1619)廓蓮社然誉湖呑和尚が開山で、浄心道求大居士の開基と云われている。本堂は明治20年に焼失したが、同22年再建され、昭和46年に新築された。
境内には、弘法堂・聖天堂があり、墓所には2・26事件で殉職した清水巡査部長の墓がある。
浄心寺から街道は、国道6号線の手前の細い道を左に進み、都道467号線に合流して直ぐ信号三叉路を右に進むと、右に入る旧道口がある。
この旧道口はポケットパークになっており、傍らに地蔵菩薩石仏等十三体・八大龍神碑が並んでいる。
石仏群の直ぐ先に親金貨物線の浜街道踏切がある。
新金貨物線とは、JR総武線新小岩駅とJR常磐線金町駅を結ぶJR総武本線の貨物線の通称である。
浜街道踏切を越えてどんどん道なりに進んでいくと、国道6号線に合流する。
合流して国道6号線の高架に沿って進んでいくが、500mほど先で国道6号線は右にカーブして江戸川を渡っていく。

京成金町線 JR常磐線 旧道口 葛西神社
国道6号線に合流して間もなく、京成金町線の踏切がある。
ここを左に入ると京成金町駅とJR常磐線の金町駅がある。
国道6号線の高架と分かれると、直ぐ先にJR常磐線の高架がある。 JR常磐線の高架をくぐった直ぐ先で、街道は右手の筋に入っていくが、道路は中央分離帯があり横断歩道も無いので、横断歩道橋で渡っていく。
この旧道口には道標があり、金蓮院などと刻まれている。金蓮院は、ここから300mほど北西にあるが、道路は渡ってしまったので行くのは諦めた。
旧道に入って直ぐ右手に、陸軍大将林銑十郎の書による葛西神社社標が建っている。社標の奥を100mほど入ると段上に葛西神社がある。
葛西神社は、平安時代末期、後鳥羽天皇の元暦2年(1185)領主葛西三郎清重により、近郷33郷の総鎮守として下総国香取神宮の分霊を勧請したものである。境内には、神明社・諏訪神社・弁天社・水神宮・道祖神などの境内社がある。

庚申塔 光増寺 江戸川 金町関所跡
街道に戻ると、葛西神社の西側にあたる街道脇に、風化の進んだ一六臂の青面金剛の庚申塔が建っている。 先に進むと街道の正面に、浄土宗の摂取山蓮池院光増寺があり、街道はやや右に曲がっていく。
光増寺は、貞応元年(1222)随信房法海の開基であり、元仁元年(1224)親鸞上人が立ち寄り、光増寺という名前は親鸞上人が名付けたと云われている。境内には、太子堂・俱会堂があるほか、道標を兼ねた舟形地蔵尊があり、墓所には俳人鈴木松什の墓がある。
光増寺の先で都道451号線に合流して北上していく。右手は江戸川の土手で上ってみると、河川敷はゴルフのショートコースがあり、江戸川には葛飾大橋と葛飾橋が架かっている。 葛飾橋を越えて更に200mほど北上すると、東京都下水道局東金町ポンプ所の脇に、金町関所跡がある。
ここには対岸の松戸宿との間を結ぶ渡船場あり、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門があったところである。
この先は、葛飾橋まで戻り江戸川を渡って迂回する。

迂回路 下横町渡船場跡付近 御料傍示杭 松龍寺
対岸の渡し場付近へ向かうため、迂回路は葛飾橋を渡って行く。
江戸川堤防は、サイクリングロードが整備され、河川敷には、ゴルフ練習場などがある。
葛飾橋を渡り、500~600mほど上流の河川敷に下横町渡船場跡があるはずであったが、辺りは萱などが生い茂り、渡船場跡などの標柱は見当たらない。
あった看板は、国土交通省江戸川工事事務所のもので、注意看板であった。
下横町渡船場跡付近から江戸川土手に上ると、土手下に御料傍示杭が建っている。
ここにあった傍示杭は、本来木製であったが、ここには標石が建てられており、「是より御料松戸宿」 と刻まれている。
御料傍示杭から街道に出ると、右手の筋に圓光大師・弘法大師安置と刻まれた寺標があり、先に進むと坂川に架かる松龍橋の奥に浄土宗の廣大山松龍寺がある。
松龍寺は、慶長8年(1613)高木九兵衛正次が開基であり、当時は広大な式地に松がそびえる高台にあり、徳川将軍家の鷹狩りの際は休憩所として使用された。境内には、籾殻塚稲荷境内から現れた観世音菩薩が安置された観音堂や、弁財天堂・弘法堂などがある。

本陣跡 松戸神社 松戸宿坂川の歴史碑 宝光院
街道に戻って進み、宮前町交差点を左折ると、左手の三階建マンション脇に本陣跡がある。松戸宿の本陣は、江戸前期は吉岡隼人家、江戸中期以降は伊藤惣藏家が代々勤め、水戸徳川家をはじめ、土浦藩・笠間藩・岩城平藩・相馬藩など十数家の大名が宿泊や休息で利用した。平成16年(2004)に解体された旧本陣の建物は、慶應3年(1867)2月7日、本陣の出火で焼失し、その直後に再建された建物と推定される。 宮前町交差点の先右手に松戸神社鳥居があり、鳥居をくぐった先の坂川を渡ったところに松戸神社がある。松戸神社は寛永3年(16261)の創建と云われ、神仏習合の影響で、かつては御嶽大権現と称した。慶長期には、街道の宿場町「松戸宿」として脱ぎわい、水戸徳川家からも崇敬をうけ、数多くの奉納品が納められた。境内には、秋は神社・水神社・金比羅神社・市の神社などの境内社がある。 街道に戻って進むと坂川に架かる春雨橋があり、渡詰め左手に松戸宿坂川の歴史碑が建っている。碑には次のように刻まれている。
古くからここは水路があり、街道を横切っていた。橋は水戸石橋と呼ばれていたと伝えられている。のちに、川の名を坂川、橋の名を春雨橋と言う。松戸宿はこのあたりから下横町渡し船場までが繁華街で街道の東側は田畑が広がっていた。坂川については、松戸神社の二の鳥居脇に解説がある。
坂川を渡ると左手に真言宗豊山派の梅牛山宝光院がある。
宝光院の創建年代等は不詳であるが、本尊は不動明王像で、明治まで歴代住職は、別当として松戸神社(御嶽権現)の護持と管理に努めた。
境内には四国八十八ヶ所御砂踏霊場、旧松戸宿本陣の大黒柱のほか、墓所には北辰一刀流を開いた千葉周作の実父千葉忠左衛門の墓がある。

善照寺 西蓮寺 旧松戸宿解説 金山神社
続いて左手に真言宗豊山派の松戸山善照寺がある。
善照寺の創建年代は不詳であるが、流山市の清龍院の末寺として松戸向山に創建され、慶長16年(1611)に現在地に移転した。
本尊は聖観世音菩薩で、境内には文化8年(1811)に再建された不動堂がのほか、松戸七福神の布袋尊像などがある。
更に引き続いて左手に真宗大谷派の光明山西蓮寺がある。
西蓮寺は、文禄3年(1594)徳川家康が関東入国の際、矢喰村(現矢切)に三河国より釈順誓師を招聘して一宇を建立し、光明山西蓮寺としたのが始まりと伝えられている。その後、慶長18年(1613)にこの地に移転した。歴代住職は教育熱心で、本堂で寺子屋を開き、近隣子弟の教育に当たったという。
先に進むと信号十字路の左角にある松戸市民劇場前に、旧水戸街道・旧松戸宿の解説碑が建っている。
松戸宿は、水戸街道に沿って家屋が帯状に連なる形態をしていた。宿には本陣・脇本陣があり、江戸末期の記録では戸数450戸余り、旅籠28軒のほか鍛冶屋・荒物屋・魚屋・八百屋・酒屋などあらゆる商売の店が軒を並べていた。ここを右折するとJR常磐線・新京成線の松戸駅である。
街道をどんどん進んで根本交差点を過ぎると、右手に金山神社社標があり、奥に進むとJR常磐線を跨線橋で渡ったところに金山神社がある。
金山神社は、寛永3年(1626)の創建と言われ、祭神は金山比古命である。神社のある場所は、かつて根本城があったところの一部だと言われているが、遺構らしきものは残っていない。
跨線橋を渡ると正面に鳥居があり、左手に社殿があって、後ろの小山に富士塚(浅間神社)がある。

JR常磐線 雷電神社 龍善寺 馬橋
街道に戻って進むと、街道はJR常磐線で分断されているため、県道261号線の歩道橋と一体となった跨線橋で渡って先に進んでいく。 跨線橋を渡って間もなく、右手に雷電神社がある。
雷電神社は、別雷命(わけいかづちのみこと)を祭神とし、雷除けのほか雨と水をもたらす神として崇められた。
参道脇に弘法堂があり、二の鳥居からは急な石段となり、途中に庚申塔などが並び、石段を登り詰めると小ぶりな拝殿がある。
先に進んで国道6号線に合流し、北松戸駅前交差点を過ぎると、右手空き地に浄土真宗東本願寺派の本郷山龍善寺寺標が建っている。
龍善寺の創建年代等は不詳である。
寺標の裏山(高台)に堂宇があるようだが、北松戸三丁目交差点まで戻って参道を登るのは大変なので先に進むこととした。
ビルが立ち並ぶ国道6号線をどんどん進んで、中根立体入口交差点を左折し、一本目の筋を入ると長津川に架かる馬橋がある。
室町時代、本土寺過去帳に 「マハシ」 の地名が出てくる。 「馬橋」 の名はこの橋にちなんで名付けられたと云われ、江戸時代には水戸街道が通っていた。

栢日庵立砂居宅跡 中根寺 萬満寺 JR馬橋駅
馬橋を渡ってJR常磐線の馬橋駅方向に進むと、右手に栢日庵立砂の居宅跡がある。
馬橋の油屋平右衛門こと栢日庵立砂(1799没)は、東葛地方の俳諧人として有名であった。親子ほど歳の差があった一茶から爺と慕われ、彼のよき理解者であり、庇護者でもあった。
先に進むと右手に真言宗豊山派の中根寺がある。中根寺は慶長18年(1613)の開基で、ご本尊は薬師如来である。
参道口に石柱が二本建っており、一本は新四国第五十六番四豫州泰山寺と刻まれ、もう一本は途中折れているが、南無阿弥陀仏と刻まれている。
街道はJR常磐線馬橋駅入口を過ぎると右に曲がって行くが、その曲がり角正面に臨済宗大徳寺派の法王山萬満寺がある。
萬満寺は、建長8年(1256)下総国守護千葉頼胤が、良観房忍性を招いて大日寺を開いたのが始まりと言われている。
境内には、仁王門があり国重要文化財の金剛力士像が安置されてほか、弁財天堂・弘法堂などがある。
本日は萬満寺で終了し、最寄りのJR馬橋駅から帰宅の途についた。

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