清亮寺の門前を通っている幅6mの道路は、千住を起点として水戸に至る江戸時代の水戸街道(水戸海道)です。
 江戸時代初期の元和5年(1619)に開山した清亮寺は、今の千住4丁目で日光街道(日光道中)から分岐した水戸街道に面する最初の寺院で、門前には街道の向こう側まで枝が達する大きな松がありました。
 水戸街道は参勤交代の大名行列で賑わいましたが、槍持ちはいかなる理由でも槍を横に倒すことは許されません。しかし、街道一杯に張り出した松のため、一度は槍を倒さなければ通れません。そこで、街道に張り出した松を切ろうとしたとき、見事な枝振りをご覧になった、後の水戸黄門、水戸藩主の徳川光圀公は「名松を切るのは惜しい。ではここで、この松に槍を立て掛けて休み、出立の時に、槍持ちが松の向こう側に行ってから槍を取り直せば、槍を倒したことにはならない」と、粋な計らいをしました。
 以来、この松は「槍掛けの松」と称えられ、ここを通る大名行列は、門前で松に槍を立て掛けて休むようになりました。
 写真は、水戸黄門の時代から守られてきた「槍掛けの松」の見事な姿で、今の足立たちばな幼稚園西側の道路から、関東大震災以前に撮影されたものです。
 大きな松の根元は幼稚園内の南西寄りにあり、屈曲した先端は添え木に支えられ、水戸街道の向こう側まで勢いよく枝を張り葉を茂らせています。しかし、樹齢350年を数えた名松は、惜しくも昭和20年ごろに枯れてしまいました。
 南無妙法蓮華経と髭題目が刻まれた棹石や、清亮寺と刻した寺号石は、正面が西向きに置かれており、今の山門前とは向き、場所が共に異なっています。
 後方左手は清亮寺内の家ですが、右側の二軒は、間に水戸街道を挟んだ道路の向こう側の家ですので、この写真は、水戸黄門一行が通行した時代を偲ぶことも出来る貴重な資料といえます。

本堂に掛かる経王殿の扁額

本堂に祀られた日蓮上人像

槍掛けの松由来碑

天保4年(1833)に再建された総欅造りで、随所に江戸期の建築様式を残している。

中村不折の書で昭和59年に足立区登録有形文化財(書跡)に指定された。

安永8年(1779)の南無妙法蓮華経題目碑

天保14年(1843)の供養塔

本堂に掛かる久栄山の扁額

清亮寺本殿

山門 (薬医門)

堂内には日朝上人像が祀られている。日朝上人は、法華経の行に教学にとその才能は宗門内外に高名であった。

日朝堂