小菅の町を東西に走る水戸橋通り(水戸佐倉道)は、江戸時代には五街道の一つ日光街道に付随する街道として道中奉行の支配下に置かれていました。日光道中千住宿で分岐し、小菅・上千葉を通り砂原村と亀有村境で葛西用水を越え、中川にある新宿の渡しから一つめの宿場である新宿に至り、宿の南でさらに水戸道と佐倉道に分かれる関東を走る主要な街道の一つで、かつては黄門様の歩いた道であり、徳川幕府最後の将軍 「慶喜公」 が水戸へ落ち延びた道でもあります。大正期に荒川(隅田川)の氾濫を防ぐために造られた今の荒川は江戸時代には無く、千住宿から直進して水戸橋通りに繋がっていました。
 日本橋から水戸へ29里約122㎞、19次の宿場があり、その先も越前浜街道として仙台まで続いています。江戸時代幕藩体制の確立に伴い、道は軍事から物資の流通が前面に押し出されるようになります。水戸佐倉道は近世において葛飾区域を通る代表的な街道でした。利根川・江戸川をはじめとする大小河川の改修・新田開発などにより、従来の低湿地は急速に減少し、小規模な交通路が発達するようになり、これら街道や河川交通を利用して野菜を中心とした物資が江戸に向けて大量に輸送されるようになり、東京低地の諸村は江戸の近郊農村として位置づけられていきます。また、風景の中に水の景色を求めることが多い日本人・江戸住民にとって東京低地はまたとない行楽の地となり、中川に𨛗の雰囲気を求めたり、江戸川鴻之台の風景を愛でたりしています。加えて成田山信仰・帝釈天・木下川薬師・半田稲荷等々の社寺への参詣の道として機能も持つようになりました。
 千住の宿を出発した江戸の住民が、「小菅御殿」 の地に足を踏み入れ、遥か東方の景色を愛でながら、「水戸橋」 を渡り亀有村に歩いていく様子が目に浮かびます。

荒川土手を下る

東に延びる旧道の入口

入口右手の家の塀に貼られた街道案内