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旧水戸街道   (馬橋~取手


平成30年3月29日(木)    ☀    馬橋~取手    15.0㎞
晴天が続いているので、昨日に引き続き、水戸街道を歩くこととした。早朝に家を出てJR馬橋駅に7時前に到着し、駅前で立そばで朝食を済ませて、昨日終了した萬満寺前から街道歩きをスタートした。この先の宿場は、小金宿、我孫子宿、取手宿である。

JR馬橋駅 地蔵堂 厳島神社 八ケ埼一里塚跡
早朝といっても日の出時刻は既に過ぎているので、駅舎には陽が当たっている。
駅前からは、いつものことながら人波に逆行していく。、
萬満寺前から右に曲がって進むと、右手に壊れかけた地蔵堂があり、中に一体の宝暦2年(1752)の地蔵菩薩が安置されている。 地蔵堂の隣はバス停であり、その奥(南側)に馬橋弁財天厳島神社がある。
馬橋弁財天厳島神社の由緒などは不明で、近くに由緒碑なども見当たらない。
街道は八ヶ埼交差点で国道6号線に合流し、その直ぐ先右手の安楽亭の隣に、八ケ埼一里塚跡がある。
ここは江戸日本橋から6里目、千住追分から4里目の一里塚跡である。

蘇羽鷹神社 旧道口 JR武蔵野線 旧道
先に進んで二ツ木交差点を過ぎると、その先のY字路交差点の左手段上に、蘇羽鷹(そばたか)神社がある。
この地には、千葉孝胤が治めた三ヶ月(みこぜ)の馬橋城があったが、孝胤が太田道灌に敗れて廃城となり、その後、天正4年(1576)千葉氏の加護を受けて蘇羽鷹神社が創建された。
内には、稲荷神社のほか、青面金剛の庚申塔などたくさんの石碑・石造物がある。
蘇羽鷹神社の前のY字路交差点を右に入っていくのが旧道であり、ここから国道6号線と分岐して車の往来の少ないのどかな道となる。 先に進むと間もなく、JR武蔵野線の高架がある。武蔵野線は、神奈川県横浜市鶴見区の鶴見駅から千葉県船橋市の西船橋を結ぶ、首都圏の外環鉄道路線である。 しばらく進むと民家は立並ぶものの、ところどころに樹木が生い茂るところもあり、旧街道を偲ばせている。

常行院 道標 一月寺 玉屋(小金宿の旅籠)
先に進むと左手に浄土宗の二ツ木山般舟寺常行院がある。
街道からは裏参道を通っていくが、山門があるのは国道6号線沿いである。常行院は、文亀2年(1502)経誉愚底上人により、檀信徒の請願を受けて開創された。境内には、弘法堂のほか、六地蔵尊などの石造物がある。
常行院の先で蘇羽鷹神社前で分岐した国道6号線を渡ると、右手に 「旧水戸街道旧屋敷400m」 と記された道標が建っている。 先に進むと左手に日蓮正宗の金龍山梅林院一月寺がある。
一月寺は、鎌倉時代初期に金先禅師によって創建されたと云われている。江戸時代には青梅の鈴法寺と一月寺が触頭として、関東地域の普化宗諸派の寺院を統括した。明治4年(1871)の太政官布告によって普化宗は廃止された。
一月寺を過ぎると、程なく左手に小金宿の旅籠であった玉屋がある。
小金宿には旅籠が多く、鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の姿を留めている。

妙典寺 明治天皇小金御小休所碑 スダジイ 東漸寺
玉屋から200mほど進んだ信号十字路の右筋角に道標があり、妙典寺100mとあるので、この筋を入っていくと日蓮宗の正覚山妙典寺がある。
妙典寺は、寛永年間(1624-44)の創建で、直井妙典が開山と伝えられている。境内には、文政8年(1825)に建立された芭蕉句碑 「志ハらくは花のうへなる月夜可奈」 がある。
街道に戻ると、直ぐ左手の冠木門のある梅沢家の庭に、明治天皇小金御小休所碑が建っている。
明治17年(1884)、茨城県女化原(現牛久)の近衛兵演習の天覧のため、小金を通過する際に休憩された。
梅沢家から程なく右手に、スダジイの大木が張り出している。
このスダジイは、平成15年9月1日松戸市保護樹木に指定された樹木である。
スダジイの斜向かいに東漸寺寺標の建つ参道口があり、300mほど奥に浄土宗の佛法山東漸寺がある。
東漸寺は、文明13年(1481)経誉愚底運公上人により開創され、江戸初期に関東十八檀林の一つとされた名刹である。寺域は広大で、寺標の先の総門(高麗門)をくぐり、仁王門からの桜並木を通り、中雀門を抜け、観音堂の前を通ると本堂がある。境内には、弘法堂・不動堂のほか、明治維新の志士の碑などがある。

小金町道路元標 小金宿モニュメント 蟲王大明神 根木内城址
街道に戻って進むと、JR常磐線の北小金駅へ向かう十字路の左角に、小金町道路元標が建っている。 小金町道路元標のある信号十字路には、小金宿モニュメント(解説)・本土寺参道道標・水戸街道道標などがある。
信号十字路の左右に小金宿モニュメント(解説)、北小金駅へ向かう筋に本土寺参道道標、右折した左手に水戸街道道標・八坂神社御跡地碑が建っている。
信号十字路を直角に右折して行くと、右手に三つの小社が建っている。中央が蟲王(むしおう)大明神で、右に稲荷大明神、左に金比羅大権現が祀られている。
ここ杉原家は、延享4年(1747)頃から小金の地に出雲地方から到来し、少彦名神を主祭神とする蟲王大明神を建立し、昭和30年(1955)頃まで代々、神主(杉原出雲)として祈祷してきたという。
街道を先に進むと、国道6号線と交差する左手に木々が生茂る小山が見えてくる。
ここは根木内城址であり、「根木内歴史公園」 として整備されており、空堀・土塁・土橋などが残っている。

根木内城址橋 坂道 庚申塔 行念寺
街道に戻って進むと、標識がないと橋とは認識でないが、上富士川に架かる根木内城址橋がある。 根木内城址橋を渡ると、その先はややS字の坂道となっていく。
坂道の入り口右手には、頭の欠けた地蔵菩薩と根元から折れた馬頭観世音碑が横倒しのまま置かれている。
坂道を進んでいくと左カーブの右手斜面に庚申塔が二基建っている。
左側は享保9年(1724)の一面六臂の青面金剛の庚申塔、右側は青面金剛尊と刻まれた文字庚申塔である。
庚申塔の先で坂道を上り詰めると、左手に浄土宗の金龍山行念寺不退院がある。
行念寺は、明応2年(1493)東漸寺開山の経誉愚底上人の開基である。
境内には、弘法堂・不動堂などのほか、庚申塔・十九夜塔・馬頭観音等の石造物がある。

浅間神社 聖徳太子碑 香取神社 八坂神社
街道は行念寺の直ぐ先の信号交差点を直進するが、ここを右折して200mほど進むと左手に中新宿富士浅間神社がある。
浅間神社は、この地において大杉朽株発掘して金像を得たという地形が、富士に似ているので社殿を設け金像を御神体に奉祀し、富士浅間神社と名付けたと言われている。
境内には、天神社のほか、掘出の池と号する池の脇に平成2年に新築された厳島神社がある。
街道に戻って進むと、左手のウエルシア薬局店の手前に聖徳太子碑が建っている。
聖徳太子碑の後ろには、風化の進んだ青面金剛の文字庚申塔が建っている。
この辺りが柏市と流山市の市境になる。
聖徳太子碑から200mほど進むと、福祉会館入口交差点の手前左手に香取神社がある。
香取神社は、江戸時代初期の創建で旧向小金新田の産土神であり、祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)である。
境内には一里塚跡碑・青面金剛の庚申塔などの石造物がある。ここは江戸日本橋から数えて7里目、千住追分から5里目の一里塚跡である。
街道をどんどん進んで南柏駅東口交差点を過ぎると、右手に八坂神社がある。
八坂神社は、江戸時代に小金上町の人が上野牧のこの地を開拓し、その地縁によって享保11年(1726)頃、小金町の八坂神社より分祀されて創建されたと言われている。

豊受稲荷本宮 神明神社 東武野田線 小松翁稲荷
八坂神社の先で左手に柏ヤングボウルの大きなピンを見て、更に進んでいくと右手に豊受(ゆたか)稲荷本宮がある。
豊受稲荷本宮は、昭和40年(1965)に創建された新しい神社で、京都の伏見稲荷から勧請された単立神社であるが、神仏混淆の珍しい神社である。境内には、柏七福神の福禄寿尊があるほか、石清水八幡・白蛇弁財天・三峰神社など新しい石碑がある。
豊受稲荷本宮から程なく、信号交差点の左手に神明神社がある。
この神明社は、明治初期にこの地の開墾をする人々のよりどころとして、天照皇大御神をご祭神として創建された。現在は、柏市冨里周辺をはじめ、近隣地域の鎮守として人々の篤い崇敬を集めている。
神明神社の直ぐ先で、東武東上線の高架が街道を横切っている。
東武野田線は、当初、野田市駅から柏駅まで醤油(キッコーマン醤油)を運ぶ貨物輸送のために建設された路線であったが、その後、大宮-野田間が野田線、柏-船橋間が船橋線となり、昭和5年(1930)に全線開通し、東武野田線となった。
先に進むと右手の柏セントラルホール(葬祭場)の脇を入ったところに、小松翁稲荷神社がある。
この稲荷神社は、明治末期に創建されたものであるが、詳細な由緒は不明である。

柏神社 長全寺 明治天皇柏御小休所碑 道標
小松翁神社を過ぎると、程なく柏駅入口に当たる十字路手前右手に柏神社がある。
柏神社は、古くは天王様とよばれ、京都の八坂神社と山形の羽黒三山の羽黒神社を祀る合祀社である。江戸時代に柏周辺で流行した疫病から人々を救うため、厄除けとして名高い素戔嗚尊を祀ったのが始まりと言われている。境内には、民間信仰の待道大神宮社のほか、風化の進んだ石灯籠や青面金剛の庚申塔などの石造物がある。
柏神社から300mほど進んだ信号十字路を右折すると、左手に曹洞宗の戸張山長全寺がある。長禅寺は、天正3年(1575)松戸市広徳寺5世巧宝梵藝和尚を招いて開山した。
その後、戸張氏の菩提寺として栄え、寛永年間(1624-43)に戸張村の香取神社付近から現在地に移転した。
境内には、仁王門のほか金比羅堂・不動堂・弘法堂・大日如来堂などがある。
街道に戻ると信号十字路の左角に建っている、そごう立体駐車場の前の植栽に明治天皇柏御小休所碑が建っている。
ここは明治17年(1884)、明治天皇が女化原で実施された近衛砲大隊射撃演習を天覧の際、休憩された寺嶋家跡である。
続いて次の信号交差点左角のファミリーマートの前の植栽に道標が建っている。
いつのものは不明であるが、「江戸へ近道」 と刻まれている。

諏訪神社 アーセンティア迎賓館 馬頭観音 大堀川
更に続いて次の信号交差点を越えた左筋を入ると、諏訪神社がある。
諏訪神社の創建年代等は不詳であるが、社殿の周りには100基を超える文字庚申塔・青面金剛像の庚申塔が並び、安産祈願の民間信仰の神である待道大権現のほか、天神社・道祖神・疱瘡大神・雷神社・山王社・白山社・香取神社・大神宮等の境内社がある。
街道に戻って国道16号線を渡って進むと、JR常磐線の跨線橋の先にお城のような建物が見えてくる。
この建物は、結婚式場のアーセンティア迎賓館である。跨線橋を渡ると右手のJR常磐線に並行して進んでいく。
JR常磐線に並行する道を進み、右手に聳えるケヤキの大木を過ぎると、左手筋角に馬頭観音碑が建っている。
馬頭観音碑は正面に 「文政12年(1829)馬頭観世音菩薩」、左面に 「ながれやまみち」 と刻まれている。
街道を進むと大堀川に突き当たり分断されているので、左に進んで大堀川に架かる呼塚橋(よばつかはし)で渡っていく。
大堀川は下流で手賀沼に注いでおり、かつて、ここには船着場があり、大堀川から手賀沼を経て利根川を下る水運のルートがあった。呼塚とは、平安時代に源頼朝献上された名馬 「生食(いけずき)」 が葬られた塚があったことに由来するという。

北柏駅 東陽寺 妙蓮寺 道標
呼塚橋を渡って進むと登り坂になり、坂の途中の右手に北柏駅がある。
北柏駅は、常磐線の複々線工事により、柏駅と我孫子駅の貨物取扱いを集約するために貨物駅として設置されたのが始まりという。
坂道を上り詰めって先に進むと、柏市と我孫子市の市境付近の左手に真言宗豊山派の地蔵山東陽寺がある。東陽寺の創建年代等は不詳であるが、境内にはかつて別当であった稲荷大明神が祀られている。
墓所は街道を挟んだ向かい側にあり、入口に青面金剛の庚申塔・廻国供養塔・馬頭観音・弘法大師像などの石造物がある。
東陽寺を過ぎると100mほど先右手に日蓮宗の頂経山妙蓮寺がある。
妙蓮寺は、建武元年(1334)日念上人が開山となり創建されたと云われている。
参道口に清正公堂があり、境内には手水舎があるのみで、鐘楼などの堂宇は無く、広々とした中に常夜燈・七重塔などが建っている。
街道に戻ると、直ぐ先の県道7号線との交差点左角に風化の進んだ道標が建っている。
道標には 「成田山」 などの文字が確認できる。

八幡宮 弘法堂 国道6号線 JR常磐線
県道6号線との交差点を渡ると、直ぐ右手に八幡宮の社があり、中に八幡宮と刻まれた石祠が祀られている。 先に進むと街道は右に直角に曲がり、左手一本目の筋角に弘法堂が建っている。
弘法堂には、一体の弘法大師像があり、お堂の脇に 「新四国」 と読み取れる折れた石碑が無造作に積まれている。
直角に曲がってきた街道は、国道6号線に突き当たり、その先に延びている。
ここは横断歩道橋で渡っていく。
国道6号線を越えてどんどん進んで行くと、街道はJR常磐線で分断されるので、先に見える跨線橋で渡っていく。

日立精機2号墳 馬頭観音 興陽寺 八坂神社
街道は跨線橋を渡るが、このまま先へ10mほど進むと左手に、日立精機2号墳がある。現在公園となっているこの場所は、旧日立精機工場があったところで、墳丘は高さ2.5m、全長30m、後円部径18m、前方部幅21mで、横穴式石室を有する前方後円墳である。JR常磐線を隔てた南側にある根戸船戸遺跡の古墳群と同時期の古墳時代終末期の古墳であり、この時期に我孫子地区に大きな勢力があったことを示している。 街道に戻ってJR常磐線の跨線橋を渡り、200mほど進むと右手にケヤキの木が聳え、その下に御堂がある。
御堂には、三面六臂の馬頭観世音菩薩が祀られている。
先に進むと右手に曹洞宗の自性山興陽寺がある。興陽寺は、天正8年(1580)大凉玄樹大和尚が開山し、創建された。
境内には薬師如来座像が祀られた薬師堂、石造弘法大師像を祀った弘法堂、白木一木彫の天神坐像を祀った天神社のほか、拈華微笑(ねんげみしょう)の再現像が建立されている。
街道に戻ると直ぐ先の我孫子駅入口交差点の右角に八坂神社がある。
八坂神社は、応永3年(1396)の創建と言われており、近隣住民の守り神である。この場所は旧水戸街道の我孫子宿の入口に当り、江戸時代中期にはここから東へ5~600mほど街道脇に家並みが続いていた。
社殿裏手には、天保12年(1841)の文字庚申塔などが建っている。

井戸 道標 我孫子宿本陣跡 脇本陣跡(小熊家)
先に進むと右手のビルの横に周囲の景観とは異質と思える井戸が保存されている。 街道は、割烹旅館角松の先で左に直角に曲がって行くが、曲がって直ぐ右手筋角に寛政元年(1789)の道標が建っている。
道標には、「従是子神道」 と刻まれ、道標の後ろの建物に我孫子宿の解説が貼られている。
道標から50mほど先の右手マンション前に我孫子宿本陣跡がある。
標柱には、「この付近には江戸時代の参勤交代などのときに大名などの宿泊・休憩場所として使われた本陣がありました。」 と記されている。
先に進んで街道が右に曲がる手前左手に茅葺屋根の我孫子宿脇本陣跡(小熊家)が建っている。
ここには特に説明等は設置されていない。

分岐 JR成田線 JR常磐線 旧道口
右に曲がって進んでいくと、左手筋の道路中央に樹木があり、この根元に 「成田道」 と刻まれた道標の他、庚申塔と思われる石碑があるが、植栽に隠れて正確には確認できない。
また、ここには我孫子町道路元標が建っている。街道はここを左に進み、右は成田への道筋となる。
分岐を左に進んで間もなく、JR成田線の浜街道踏切を渡っていく。 浜街道踏切を越えて先に進んでいくと下り坂となり、その先でJR常磐線で分断される。
この先は、突き当りの県道8号線に架かるJR]常磐線の高架下を抜けて反対側に向かう。
JR常磐線を越えると、右手の段上へ上がる細い道があり、突き当りを右に回り込んでいく。
土道を登っていくと左段上に円柱形のビルが見えてくる。ここには我孫子市水道局と教育委員会が入っている。

柴崎神社 円福寺 旧家 国道6号線
先に進んで我孫子市介護老人保険施設のところを左折して行くと、左手段上に柴崎神社がある。柴崎神社は、日本武尊が征途の安全と武運長久を祈願したところで、天慶元年(38)に創建したと言われている。後に平将門の崇敬が篤く、柴崎左馬督が社殿を修理し、相馬一門代々の守護神とされた。
境内には玄武(亀)の石像や道祖神・庚申塔などの石造物がある。
柴崎神社に隣接して真言宗豊山派の羽黒山円福寺がある。円福寺は、過去帳に元和2年(1616)の書き入れがあり、江戸時代初期の創建で、隣接する柴崎神社の別当だったと言われている。
また、新四国相馬霊場の55番となっており、境内には弘法堂・不動堂のほか、庚申塔などの石造物がある。
街道を先に進むと、国道6号線に突き当たる手前に3~4軒ほど立派な門構えの旧家が建ち並んでいる。
この辺りに旧柴崎村の名主であった川村家の邸宅が、街道を挟んで両側にあったという。
柴崎交差点で国道6号線に合流すると、取手まで2㎞となり、左手一面に水田が広がっている。

旧道 大利根橋 JR取手駅
柴崎交差点の次の青山台入口交差点のところから、右手の側道に入り400mほど進むと、右に折れる枡形道があり、そこから集落の間を抜ける旧道がある。 街道は利根川の堤防に突き当り、かつてはその先を渡船で渡って行ったが、ここからは左に折れて大利根橋を渡っていく。
大利根橋は何度か架け替えられているが、現在の橋は昭和49年(1974)のもので、全長は1209mある。利根川の河川敷には、利根パークゴルフ場やゴルフ練習場・運動場などがある。
長い大利根橋を渡り、右折して本日の街道歩きは終了した。ここから最寄りのJR取手駅に出て帰宅の途についた。

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